富田林市甲田三七八に鎮座する。式内社ではないが、当社の由緒の古いことは、神社の名はもと錦部神社といい、錦部郡の郡名をとっていたことによっても知られる。錦部の郡名は、錦織部(にしきおりべ)がつづまって錦部(にしごり)となったもので、それを氏族名とする石川錦織首許呂斯は『日本書紀』仁徳四一年三月条(古代三)に、錦部定安那錦は同雄略七年是歳条(古代五)に記されるなど、氏族名としては、倭の五王の時代にすでにみえる。
錦織神社の位置は、錦部郡の北端を占め、『大阪府神社名鑑』に「郡の咽喉を扼し、社殿は南面して全郡を一望の内に見わたせる要所にある」と注記しているように、当社の占める位置の重要性が知られる。昭和一〇年国宝本殿修築のさい、敷地の土中から古社殿に使われていたらしい鎌倉時代の古瓦大獅子口一対と、藤原期と推定される鐙瓦・宇瓦が多数出土したことによって、当社の創建は平安前期以前にさかのぼるとされる。
祭神として品陀別命(応神天皇)・建速素戔嗚命・菅原道真を祭り、大祭日は一〇月一〇日で、神輿渡御の儀が行なわれる。明治五年(一八七二)郷社に列し、同四〇年神饌幣帛料の供進神社に指定されたのを機会に、旧称の錦織神社に復した。昭和八年(一九三三)本社殿は国宝に指定され、同一一年竣工し、その独特な建築は錦織造りとよばれる。
以上、石川郡・錦部郡の式内社についてみてきたが、式内社ではないが古い由緒をもつ神社としてはほかに、板茂神社や春日神社をあげることができる。