伽藍の配置

854 ~ 854

富田林を南北に流れる石川の東岸には、嶽山、金胎寺山と呼称される海抜三〇〇メートル前後の丘陵、山地が横たわっている。この嶽山周辺には、数多くの古墳をはじめ各時代の遺跡が各所に分布している。それら遺跡の各個については別掲されているので、ここでは改めて述べないが、本項で紹介しようとする「龍泉寺」も同じく嶽山の東側丘陵中腹に位置するものの一つである。

 とくに同寺は、南北朝時代に嶽山を中心とする合戦によってたびたびの戦禍に会い、寺容を一変したと伝えられ、寺史を物語るのは、八脚門(国指定重要文化財)、金剛力士像、南無仏太子像、同胎内印仏(いずれも府指定文化財)、庭園などで、現存するものはきわめて少ない。それらも創建期までさかのぼりうるものはなく、創建期考究資料の大半が考古学の成果に委ねられるという状態である。

 ところで主要伽藍部分の調査が実施されていないため正確な判断は出来ないが、現存建物および土壇などから、ほぼ東西両塔を有するいわゆる「薬師寺式」伽藍配置を有したものと考えられる。出土遺物は、表面採集にかかる屋瓦がほとんどで、新堂廃寺と同範関係を有する「川原寺系」軒丸瓦をはじめ、野中寺、大県廃寺などと近似する「忍冬文」軒平瓦など奈良時代前期様式を認めるものがみられる。

 したがって、少なくとも奈良時代前期には、瓦葺建物が、ほぼ確実に存在したことが判る。

 これらの屋瓦についての詳細は別項に譲ることとし、文献資料からみた寺史について、若干記述しておきたいと思う。