奈良市春日神社には『龍泉寺氏人等解申重河内國前幷在廳官人御證判事』(『平安遺文』八五五)、『河内國石川東條龍泉寺氏人幷所司三綱等檢注當寺經論佛像堂舎佛具種々寺財寶物所領田薗等之實録安置流記帳事』、『河内國石川郡龍泉寺氏人等謹申請郡内在地刀祢司證判事』の三通と標題不明の一通の合計四通の文書である。これらは、それぞれ天喜五年(一〇五七)四月三日、承和一一年(八四四)一二月八日、寛平六年(八九四)三月五日、承和一一年一一月二六日などの日付が記入されている。
また二通目の文書には、伽藍堂舎、寺財宝などの記載とともに、それらの盗難、火災などによる亡失年次が追記されている。たとえば「観世音像七体、鋳物像三体、昌泰元年三体被盗取畢」、「一、楽具章、寛仁四年十二月廿日夜神谷火燒失了」、「檜皮葺三間經蔵一宇、天禄元年二月八日大風倒了」、「檜皮葺方鐘堂一宇、天暦元年七月三日大風倒之」などである。
一方、これら四通の文書に共通するところを抜き出すとつぎの如くとなる。すなわち(1)氏人等の祖が宗我(蘇我)大臣であり、龍泉寺は、その大臣によって建立されたものである。(2)これら文書は、承和一一年(八四四)氏長者宗岡(岳)公重が強盗のため不慮の死をとげ、同時に住宅に火を放たれたことによって、龍泉寺関係の文書が失われたため今後にそなえる意味で作成されたものであるということ、の二点に要約しえるだろう。後者はともかくとしても前者は、三、四通目の文書がいずれも「鎮護國家のため小治田宮(推古天皇)御宇、丙辰年(五九六)に創建されたものである」としており注目される。この年次は法興寺(飛鳥寺)の創建年次(竣工)と同じであり疑問がないわけではないが、紙幅の関係もあり、ここで、その真偽を論述する余裕はない。いずれにしても蘇我馬子による創建という寺伝の上限年次は、少なくとも、この文書年次までさかのぼりうることが可能という点では疑う余地がないだろう。