ちなみに『三代実録』元慶元年(八七七)一二月条にみえる右京の人前長門守従五位下石川朝臣木村の上表文に、宗我(蘇我)氏が河内石川の出身であることが記されている。すなわち「始祖大臣武内宿祢の男、宗我石川は河内国石川別業の生まれで、その地に因んで石川と名乗った。やがて、宗我大家を賜わり居を構え宗我宿祢の姓を賜わった。(以下略)」とある。言葉をかえれば、この上表文が提出された時期には、河内国石川を蘇我氏の旧来の本貫地であったという伝承を有する蘇我(宗我)氏の系譜に連なる氏族が居住していたということである。その地の一画に占地する龍泉寺は、必然的に蘇我氏との関係が想起され、先に述べた如く文献資料の傍証もあり、その歴史的価値、評価は不動のものとなる。創建~発展期の寺史を記述してきたが、一方で同寺は、弘法大師信仰との関連を深めていった。
寛治三年(一〇八九)僧経範の撰になる『弘法大師行状集記』に「河内龍泉寺條」が設けられ、現在の寺伝にいう龍泉伝説が記載されている。それは「昔、古池に悪龍が住み人びとに被害を与えていた。そこで蘇我大臣(おおおみ)が寺を建てたところ、その龍は退散したということ、さらに時がたち、池の水が涸(か)れ、人びとが困っていたところへ弘法大師が訪れ、祈ったところ龍が再び現れ、にわかに恵みの雨が降ったという、そこで龍の泉ということに因んで龍泉寺と名を改めた」という話である。
この伝説は、きわめて短く要約されて、虎関師錬『元亨釈書』にも同一の内容が記載されている。いずれにしても、鎌倉時代から南北朝時代には先述の八脚門をはじめ数多くの堂舎が再建され、寺坊塔頭も図示した二三宇を数えるまでの偉容を呈するようになったものと考えられている。
「この時期の状況を示す文献資料はほとんどなく、わずかに八脚門に納められている金剛力士像胎内銘に「檀那僧勢等佛師土佐法橋寛慶建治元年乙亥九月八日」(吽形像)、「佛師法橋寛慶 建治元年玖月八日 施主僧為筆」(阿形像)とみるのが唯一である。この外、先の坊院名を残す地域の発掘調査の結果、西方院、満福院、千手院などの建物が確認され、あわせて瓦窯七基の存在も知られている。
しかし、南北朝の争乱は、河内の地を戦火の渦中にまきこんでいった。とりわけ嶽山頂に設けられた龍泉寺城(嶽山城)の攻防は、中世も終わりに近い永正五年(一五〇八)正月までつづいたことが知られている。とくに『多聞院日記』永正四年一二月七日の記録に「一、嶽山之麓毎日大焼云々」とあり、この罹災によって従来かろうじて残ってきた堂舎の大半は再びよみがえることのない灰塵に帰したのである。
この後、文禄三年(一五九四)の検地にあたっての除地は燈明料として三石を認められたにすぎず、ありし日の姿は想うすべもない状況であった。