職田・諸司田の変質

858 ~ 860

律令制の動揺の結果、土地制度を立直そうとする桓武朝には、位田を没収し職田を設定することが行なわれている。史料(古代六四)はその一例で延暦一〇年(七九一)石川郡の元位田は、直講職田に改められた。直講は神亀五年(七二八)に唐の学制にならって設置されたもので、博士・助教・直講という教員組織で学生を指導したのである。職田は本来高級な役職か国司でなければ与えられないものであったが、官人の職務の向上を求めるために奈良朝末期から令の規定以外にも設置されはじめた。

 職田の経営は班田農民に請作させる賃租によったもので(弥永貞三「律令的土地所有」岩波講座旧『日本歴史』三)、律令体制が動揺すればその経営はゆきづまる。そこで次第に賃租から直接経営に切りかえてゆこうとする方向がでてくる。こうした直接経営の方式はすでに律令の規定では、天皇供御料や中宮・東宮の季料をまかなう官田の経営法として規定されていた。官田の経営は、宮内省から派遣された田使が、付近の班田農民の徭役により経営するものであった。しかしこれも中央官人の手では不充分にしか経営できず、九世紀半ごろからは、国司の手によって経営する方法に変化した。やがてこの官田も職田も諸官司に分割され、諸司田として経営され、九世紀末にはこの諸司田が官田の大部分をしめることとなった。こののち諸司田は次第に荘園と同じ内容をもつようになるが、そのことは後にふれよう。

 右にみたような官田の経営方式の変化は、律令体制が動揺し班田農民が変質したことによるのであるが、それは班田農民自身の律令制負担に対する忌避と抵抗の結果であり、その多くは口分田を捨て浮浪・逃亡するという形をとった。浮浪や逃亡した農民は飢え死ぬこともあったが、他の有力農民や寺社などで雑用に使われることもあった。土地私有が認められると、荘園でも雇われるようになる。しかし荘園での主要な労働力はこうした人びとにあったのではない。越前国桑原荘の場合が有名で、付近の班田農民の賃租によって経営されている(岸俊男「越前国東大寺領荘園の経営」『日本古代政治史研究』)。荘園が一カ所に集中していない場合には、同様の方法が畿内の荘園にもとられたものと思われる。平安時代の石川郡には観心寺領の荘園や龍泉寺領の荘園があった(古代六九・七六)。観心寺領佐備荘の場合、二条市原里十坪に二段、十二坪に二段、杭原里三十六坪に三段、佐備里十三坪に一段、楊谷里二十四坪に二段一五〇歩というように二~三段の田地が散在している。「河内国は、諸家庄園往々にして在り、土人の数少なく京戸過多なり。伏して望むらくは、京戸土人を論ぜず田一町を営む者に、正税卅束を出挙せん」(『類聚国史』巻八三正税、弘仁一三年一二月甲寅)とあるように田一町が一応の標準規模の経営と考えられるから(門脇禎二「律令体制の変貌」岩波講座旧『日本歴史』三)この散在した佐備荘は班田農民の賃租または請作で耕作されていたのであろう。こうして口分田を耕作しながら荘園も耕作する農民は、あるときは口分田の耕作を放棄すると主張し、また荘園の請作を放棄するということもできるから、政府に対しても荘園領主に対しても自己の主張をある程度は要求できた。もちろん政府も荘園領主も在地の有力者を通じて農民を押えつけ支配する方法をとるから、そう容易には農民が主張を貫けるわけではなかった。しかしともかくも農民は律令体制の動揺にともない、次第に力をつけてゆくのである。史料(古代七〇)の『続日本後紀』承和一二年(八四五)九月一九日条もこうした動きの中で考えられる。

河内・摂津両国に仰せて、難波堀川に生ずる所の草木を苅り掃かしむ。石川・竜田両河諸流を引きて西海に通ぜしむる為なり。

石川と大和川の水を堀河へ流し、合流点付近の洪水を防止する意味をもつ。農民はこれを政府に要求し、政府が摂津・河内両国にそれを命じたのである。律令体制が確立している時ならば、権力による農業生産拡大の方策と評価できるが、すでに時代は変わっている。史料の表面には農民の動きは明示されていないが、その背後で農民は力を向上させていたのである。

571 現在の石川・大和川合流点

 こうした例は他にもあり、「和泉国に池五処を築かしむ。民の望みに従えばなり」(『日本紀略』天長三年正月丙申条)とはっきりと農民の要求であることを明示している場合さえあるのである。こうした農民の成長に対して、もはや律令の原則では対応することが困難になり、新しい形の対応策が是非とも必要となってくるのである。