その後の諸司田

861 ~ 863

大炊寮の御稲田の変質を示すものとしては史料(古代七八)の『本朝世紀』久安五年(一一四九)一一月三〇日条を例にとることができる。当時は院政二代目の鳥羽上皇のときである。

戊申。今日、大炊寮の御稲田の供御人数百人、院に参り、訴え申す事有り、御稲を小輿に載せて持参するなり。是れ則ち河内国石川の御稲田の供御人の名田等、宇治入道相国の庄に立券せらるるの由なり。保延の比(ころ)、宣旨を下されて云う。本坪の外に副田一段、雑事免二段、惣じて四段なり。今申す所は名田一切(いっさい)、公役を勤むべからずと云々(うんぬん)。蔵人頭公通朝臣、仰を奉じて其の沙汰を致す。日来(ひごろ)の間、禁裏へ参り訴え申すと云々。

この史料の内容は、大炊寮の稲を出す名田を、前関白藤原忠実(当時、宇治に引退し出家していた)が荘園にしたことに関するものである。保延(一一三五~四〇年)のころ、宣旨では四段あった名田について、今後は公役を勤めないよう命じたというのである。当然この名田から大炊寮に送られる稲は、忠実の収入となる。しかも蔵人頭藤原公通(のちに正二位権大納言)がそれを命じた。供御人らはこれを朝廷に訴えたがどうにもならないので、数百人の仲間とともに稲を輿にのせて院に強訴しているのである。

 こうした行動は当時ではさほど珍しいものではなかった。摂関設置直前の文徳朝にも讃岐国百姓らが国司を訴えているし、摂関政治の全盛期にもこの種の動きが多い。さらに院政期に入ると「悪僧の強訴」といわれる神木神輿を担いでの強訴が相ついだ。前引史料(古代七八)もこうしたもののひとつである。

 さらに宇治入道相国藤原忠実についてみておこう。忠実は摂関家の代表者であるが、摂関家は天皇の母方として権威をもつもので、父方として権威と権力を兼ねた白河上皇とは、必ずしもうまくゆかなかった。白河は権大納言藤原公実(きんざね)の娘の璋子(しょうし)を忠実の子の忠通の室としようとしたが、忠実はこれを断わった。さらに忠実の娘の泰子(やすこ)を鳥羽天皇の後宮に入れるようにとの、白河の命令を拒否した。白河は忠実の関白職を忠実の息子の忠通に譲らせた。宇治に引退した忠実は、白河に近づいた忠通よりも、第二子の頼長を愛し始めた。白河死去後、鳥羽院政になると忠実は再度政界に復帰し、関白忠通は有名無実の存在となった。

572 忠実の家系(『尊卑分脈』より)

 こうして鳥羽院政期には、摂関家と院との協力体制が成立するのである。この協力体制のもとで、後三条天皇・白河院政期にいためつけられた摂関家領荘園の再整備が行なわれる(竹内理三「院政の成立」岩波講座旧『日本歴史』四)。前引史料(古代七八)にあるように河内国石川の大炊寮の稲田さえも、彼の荘園とされてしまうのである。こうした状況であれば、供御人たちの訴えはおそらく認められなかったであろう。院政期の荘園はむしろそこで耕作する人と田を一体的に支配する傾向があったからである。この土地と人との一元的な支配の完成こそ、鎌倉に武家政権が確立した以降も、京都を中心とした朝廷の支配が生き残る基盤であった。

 忠実のその後にふれておくと、鳥羽上皇の死の直後の保元元年(一一五六)、天皇方と上皇方に分れての戦乱、保元の乱が起った。忠実・頼長は崇徳上皇方に属し、忠通の属する後白河天皇方と対立した。乱は天皇方の武士の平清盛・源義朝らの活躍で、天皇方の勝利に終わった。忠実・忠通らは自領の荘園から兵を集めようとしたといわれるが、その兵も武士であって、武士の力による結着でしか政争の結末のつけようがなかった。頼長は白川から京北へ逃れ、西山を迂回して奈良へ入り、忠実に対面を申し入れたが、忠実はそれを拒んだため、自殺した。一方、忠実は忠通の取計らいで、京都北郊の知足院への籠居だけの処分ですんだという。ただし乱の直後には、忠実がまだ荘園から兵を集めているということを理由に、忠実・頼長の摂関家領は大部分が没収され、摂関家は手足をもがれた恰好となった。

 後白河天皇はこうして摂関家を無力化したが、その計画は藤原氏傍流の信西によったといわれる。この信西をクーデターで屠ったのは、新関白基実(忠通の子)の義兄の藤原信頼である。平治元年(一一五九)、平清盛の熊野詣の留守をねらい、源義朝ら源氏の助けをかりて信西を殺した。平清盛は、途中から引き返し、源義朝らと戦った。平治の乱である。合戦は一二月二六日の朝から夕刻にかけて、六条河原で行なわれ、平清盛軍の勝利におわった。保元の乱当時の源義朝軍は二百余騎、平清盛軍は三百余騎であるが、平治の乱の両軍も大差はなかろう。わずか数百騎同士の戦争で源平の決着がついたのである。

 乱後、源氏は壊滅状態となり、わずかに摂津源氏頼光の五代の孫の頼政のみが中央政界にとどまるにすぎなかった。だが諸国の源氏はそれぞれの地で牙をみがいていた。すこし時代がとびすぎたので、つぎに南河内にも関係の深い源氏に焦点をあてつつ武士の歴史をみておこう。