かつての奈良時代の村ならば、どこをとっても血縁関係であるから、その集団の長を通じて容易に政府は支配を貫くことができた。しかし次第に時間がたてば、血のつながりは薄くなってゆくし、農民も成長してゆく。血縁をたよっての支配は貫きがたくなってゆく。そうなれば支配を貫くための力がどうしても必要となってくる。
力による支配を必要としたのは、国司であった。国司の任期はほぼ四年で、四年ごとに新しい国へ派遣されるから、中央貴族の権威とか伝統だけでその国を支配できるわけではない。永延二年(九八八)『尾張国郡司百姓等解文』に、国司藤原元命が京より下向するごとに、有官散位の従類や不善の輩を引きつれてきたというのも、その一例証である(『平安遺文』三三九)。これはただたんに農民に対し力で支配する必要からのみ生じた現象ではなかった。承平六年(九三六)には擅(ほしいまま)に兵仗を帯して部内を横行する輩を制止することを国司に命じたように(『政事要略』天慶九年一二月七日官符所引)各地に群盗まがいの輩が多く、これを取締るためでもあった。奈良時代末以来の蝦夷の反乱とそれへの征圧軍の拠点の東国においては、特に武装した人びとの横行が目立った。平安京においても蝦夷征圧軍事に従事する人びとのあいだに、軍事にすぐれた官人を生み出した。さらに律令体制の動揺とともに崩れ去った軍団兵士制(班田農民を兵役として徴発し兵士とする制度)に代わって、健児制(郡司の子弟を兵士とする制度)がうち出されたがうまく行かず、弘仁期には検非違使が設置される。京内外にも武装した治安警察機構が成立したことになるが、一〇世紀までの検非違使は律令国家体制を守るものであり、やがて摂関政治体制・荘園収取体系を支えるものとなり、ついには武士に駆遂されゆくものといわれる(井上満郎「検非違使の成立と摂関政治」『日本史研究』九三)。
これらの武装者は武士出現の前史であって、まだ武士そのものではない。通常、武士といわれるものは、土地に根をおろし農業経営を営み、個人的に主従関係を形成する武装者のことをさしている。
このような早い例として九世紀半頃の前豊後介中井王の例が知られている。しかし中井王の場合には前豊後介という国司の地位を利用し、王という血統を重視した結びつきなので、これを武士団とみることはできない(北山茂夫『平安京』『日本の歴史』四)。さらに一〇世紀前半に東国で反乱を起した平将門も、その兵力は情勢に応じて徴集される農民軍を主体としているから、本質的には古代的であったとされる(安田元久「武士団の形成」岩波講座旧『日本歴史』四)。
武士として有名な源氏と平氏は、源氏が清和天皇の孫の経基王、平氏は桓武天皇の曽孫高望王をその始祖とするように、天皇の血筋をひいている。これは上述のように古代的体制の中から出発せざるをえなかったという事情によるものである。高望王は上総介として寛平元年(八八九)、平の姓を与えられて関東に土着し、その子の国香・良将・良文らもその地で勢力を伸した。良将の子が将門で将門の乱は、当初は国香との対立を発端とした。一方源経基も天慶二年(九三九)には武蔵介として着任したが、足立郡司武蔵武芝との間に紛争を生じていた。これに将門が介入し、やがて諸国衙を襲撃し反乱を起すが、源経基はこれを朝廷にいち早く報じ、大宰少弍に任せられた。前伊予掾藤原純友が海賊を率いて反乱を起すと、これを鎮圧し名声を高めた(将門の乱・純友の乱を合わせて承平天慶の乱といい、平安前後期を分ける境とする)。しかし名声を高めたとはいえ、経基自身がこれによって安定した地位をえたのではない。土着し勢力を拡大した将門にしても自ら新皇を名のり、律令制に則した新政府を坂東にうち立てようとしたことにうかがえるように、律令政府の体系内で出世することが夢であった。律令官人の頂点はいうまでもなく太政大臣であるから、その地位を獲得するまでは満足すべき状態ではなかった。
ことに源氏のうちでも清和源氏はさほど有力な家系ではなく、他の嵯峨・仁明・文徳・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上などの源氏に押されていた。なかでも醍醐源氏の源高明は、天慶二年(九三九)八月参議に任ぜられており、同年には光孝源氏の是茂は権中納言であったし、陽成源氏の清蔭もそうであった。『尊卑分脈』によれば経基王が源氏に陽姓されたのは天徳五年(九六一)のこととするが、『日本紀略』にはすでに天慶三年の条に源経基と記す。有力家系ではなかったからこそこうした錯誤も起るのである。さらにいえば経基王が清和天皇の孫かどうかも疑わしい。『男山旧別当田中氏所蔵文書』の「頼信永承元年告文」には、「其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇」とあり(574)、陽成源氏の可能性もある(星野恒「六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考」『史学雑誌』一一―二・三)。
源経基の子の満仲は、安和二年(九六九)三月左大臣源高明の謀叛を密告した。具体的な謀叛の内容は不明であるが、背後には右大臣藤原師尹(もろただ)がいた。師尹は当時の摂政太政大臣実頼の弟であった。ただ兄弟といっても、摂関の地位は自分の娘と天皇の個人的な外戚関係によって手に入る地位であるから、反目することも多かった。しかしこの場合は共通の敵として源高明を排除したであろう。こうして源満仲は摂関家と私的な関係を持つにいたった。その後、満仲は上総介・下野介・尾張・備前・但馬・讃岐・伯耆・淡路・摂津・伊予・美濃の守を歴任する。受領(任国に赴き私利を追求する国司)として富を蓄積したのであろう。摂津守時代に摂津多田(兵庫県川西市)に本拠地を置いた。これが摂津源氏の発祥である。
藤原道長の時代になって長和三年(一〇一四)、道長は満仲の第二子の頼親を摂津守に推そうとしたことがあった。ところが頼親は土人(土地に住みついた人間)と同じであるからという反対論がでた(『小右記』)。源氏の多田への土着性の強さがうかがえる。頼親は後に大和守となり、大和源氏といわれた。満仲の長子は頼光で、摂関家に奉仕したが彼も諸国の受領を歴任した。満仲の第三子は頼信であるが、彼については南河内との関係も深いので、項を改めてふれよう。