河内源氏三代

868 ~ 871

摂関家の「侍(さむらい)」つまり私的な武力として源氏が奉仕するようになったのは、満仲のころからである。安和の変で源高明を追放した後の摂関家は、今度は一族中で誰が摂政・関白の地位を占めるかで争った。さらにこの当時、京都の治安は全く乱れていたから、どうしても各家には私的な武力が必要とされたのである。藤原道長の父の兼家と兼家の兄の兼通の勢力争いは有名であった。この争いも一条天皇が即位すると、その外祖父兼家の勝利に終わる。摂関という卓越した地位さえ、天皇との個人的な関係で決定される点に、律令制の幻影がまだ見取れるのである。「侍」はあくまで権力者の側近に「さぶらう」役割を果しているだけで、表面的な力にはなりえていない。

 兼家の子の道長も道長の兄道隆の子の伊周(これちか)と激突した。正暦二年(九九一)、従者同士の衝突があり、伊周の弟の隆家の花山法皇襲撃事件があって、伊周・隆家らは追いおとされた。このとき源頼光らは馬寮(めりょう)につめて宮中の警備を担当した。伊周を失脚させ道長の全盛期が始まる。女官たちを中心とする宮廷文学も開花するが、時代は決して明るくはなかった。群盗が横行し皇居や摂関家や諸官衙(役所)の火災が相ついだ。長和五年(一〇一六)には道長の本邸の土御門邸が焼けた。土御門邸の再建は諸国の受領たちが引き受けたという。なかでも伊予守源頼光は、新邸の調度品・装束の一切を引き受けたのである。

 源頼光が治安元年(一〇二一)死去すると、弟の頼信がそれにかわった。万寿四年(一〇二七)道長が死去すると、約九〇年にわたって表面的には平静であった関東に翌年平忠常の乱が起った。平忠常は上総・下総・安房(千葉県一帯)を征圧し、朝廷はこれに対し平直方と中原成道を追討使に任命した。前伊勢守源頼信の名があがっていたのに、任命はされなかった。だが平直方らは充分な戦功をあげることができず、長元三年(一〇三〇)甲斐守源頼信がかわって追討使に任ぜられた。翌年頼信が上総へ進軍すると、あっけなく忠常は降伏した。『今昔物語』には「源頼信朝臣、平忠恒(忠常)ヲ責ムルノ話」があり常陸守在任(長和頃=一〇一二頃)中に頼信が忠常を家来にした説話がある。当初追討使に頼信が任命されなかったのも、あっさり忠常が降伏したのもこうした関係によるといわれる(竹内理三『武士の登場』『日本の歴史』六)。忠常の乱平定の功賞として、丹波守を希望したが果せず、翌年頼信は美濃守に任ぜられた。中央貴族はまだ武士を軽視していたのである。

 頼信はやがて晩年に河内守に任命され、壺井荘を根拠地とした。ここに河内源氏が発生するが、頼信の子の頼義と孫の義家はむしろ東国での活躍が目立つ。また頼信は石清水八幡宮を崇拝し、源氏の氏神を八幡神とした最初の人でもある。本拠地にも壺井八幡宮を勧請したが、その後源氏を名のる者は各地に八幡宮を勧請していくのである。奈良時代の大仏造営や道鏡事件に関係した宇佐八幡宮が勧請されたのが石清水八幡宮であるから、頼信によって中世の八幡神信仰が再興されたといっても過言ではない。

 頼信の子の頼義は父にしたがい忠常の乱を平定した後、京にかえり小一条院判官代として敦明(あつあきら)親王につかえていた。その功績によって相模守に任ぜられ、ついで常陸守にうつった。永承六年(一〇五一)父祖三代にわたり東北の北上川流域の支配をしていた安倍頼時が反乱を起したので、頼義を陸奥守に任命し鎮定させた。鎮守府将軍をかねた頼義に安倍氏は帰服したが、やがて任期終了まぢかになって、逆に安倍氏を挑発し戦乱を引き起こした。東北を含めて東国にゆるぎない勢力をうえつけるためであった(竹内理三『前掲書』)。戦乱は天喜四年(一〇五六)から康平五年(一〇六二)まで、七年におよんだ。永承六年から数えれば一二年になるが、前九年の役と名付けられている。

 前九年の役後、奥州に勢をはったのは清原氏であった。清原氏は内紛を起し永保三年(一〇八三)頼義の子の義家が陸奥守兼鎮守府将軍として着任すると、戦いが開始された。義家は朝廷に清原氏追討の宣旨を要求したが果せず、戦乱は寛治元年(一〇八七)ようやく終結した。朝廷ではこの前年に白河上皇が院政を開始しているが、これを武士の私闘とみて一切恩賞を授けなかった。義家は私費で部下に恩賞を与え、源氏は関東一帯にゆるぎない勢力を得ることになった。また院政開始による摂関権威の否定は、武門の代表者としての義家への寄進地系荘園の集中となって表れ、白河上皇は寛治六年(一〇九二)義家の新設荘園を禁止せざるをえないほどであった。しかし承徳二年(一〇九八)には義家の昇殿を認めざるをえず、ここに政治の表舞台に武士が登場する新時代が到来したのである。

 以上の源氏三代、頼信(九六八~一〇四八年)・頼義(九八八~一〇七五年)・義家(一〇三九~一一〇六年)の墓は通法寺(羽曳野市通法寺)にある。

575 河内源氏三代の菩提寺・通法寺(羽曳野市)

 通法寺は一一世紀中ごろに河内国司の頼義らが菩提寺として建てたといわれる。明治初年廃寺となり、現在は門と門長屋の一屋の一部、鐘楼、新本堂の礎石などがわずかに残り、頼義は旧本堂の床下に葬られ、いわゆる墓堂形式の墓とされる(この近くでは太子町叡福寺の聖徳太子の墓も墓堂形式の例である)。この寺跡(元禄期の本堂跡)より南方約一〇メートルの丘陵上に義家の墓がみられ、すこし西方に離れて頼信(河内源氏の祖)の墓があり、これら三代の墓は通法寺の寺域に含まれ、中世寺院跡として国の史跡に指定された。