後三年の役(一〇八六~八八年)に源義家(一〇三九~一一〇六年)が清原家衡の軍を金沢の柵(秋田県)に攻めたとき、義家は、士気を鼓舞するため、剛の座と臆の座とを設けた。毎日の戦いで、剛勇ぶりを発揮した武士を一方の座にすわらせ、臆病であったものを他方の座につかせるのである。こうすれば、武勇をたっとぶ武士は、臆の座につくことを恥と考え、ふるって戦うだろう、と義家は考案した。藤原季方という武士はいつも剛の座につき、一度も臆の座にすわったことがなかった。
ところが、末割四郎惟弘は一度も剛の座につくことができなかったので、それを恥じたらしく、ある日今日こそは勇戦して剛の座につかせてもらおうと思い、じゅうぶんに腹ごしらえをした上に、酒を飲んでから、先駆けをして敵陣にむかった。しかし運が悪く、敵の矢が首の骨にあたり、死んでしまった。すると射切られた首の切れ目から、さきに食べた飯粒が形をかえずにこぼれ出て、人びとの嘲笑をうけた。
義家はこれをきいて悲しみ「もとより勇者でないものが、急に勇気を出して先をかけても、このようにぶざまな死にかたをするものだ。また、食べた飯粒が、腹の中に入らずに、のどにつまっているのは臆病がまだぬけていないためだ」といった。
末割惟弘に関する右の説話はどこまでも説話であろうが、しかし義家の言葉といわれるもののなかに、さすがに武士団の棟梁だった義家だけあって、さとりきった考えかたや、心のもちかたがにじみ出ている。
「わし(鷲)のす(住)むみやま(山)には、なべてのとり(鳥)はすむものか、おなじき源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや」と『梁塵秘抄』にみえる。
一二世紀ごろの民衆歌謡としてうたわれた歌の一節であるが、鷲になぞらえて「おそろしや」とうたわれた八幡太郎は、いうまでもなく源義家のことであり、石清水八幡宮(京都府)の社前で元服したところからそうよばれた彼は武勇にすぐれ、武略に長じ、その死後といえども「おそろしき」武者として語りつがれ、不世出の英雄として伝説化されていった。
ついに義家が武の神として仰がれたことを示す話が『古事談』にみえる。白河上皇(一〇五三~一一二九年)が、夜の睡眠のさい、物の怪になやまされた。しかるべき武具を枕もとにおけば、やすらかにねむれるということになり、義家を召した。義家は黒漆ぬりの弓矢を献上し、上皇がそれを枕頭にたててねむることにした。その後は物の怪におそわれなくなったという。マジック的な行為による霊験は、現代人がとうてい信ずることはできないし、またそのような方法で病気のなおるわけもない。ただしかし、義家の時代の人びとは武勇の点で神わざをもつ義家が超人間的な力をあらわすことを不思議としなかったのである。
武勇にすぐれただけでは武士の棟梁となることはできない。後三年の役のさい、飛雁の列の乱れをみて、草むらの伏兵を知り、いのちびろいをした義家は、もし自分が大江匡房(一〇四一~一一一一年)から兵書を学ばなかったならば、清原武衡の伏兵のために敗れたであろう、といい、匡房からうけた学恩を謝した。義家はまえに匡房から「兵法を知らない武士だ」といわれ、たしなめられたことがある。義家がすこしも怒る色をあらわさずに、匡房から兵書を熱心に学んだことは、彼の度量の大きさを物語っている。
しかし、義家が社会の信望をあつめて武士団の棟梁となりえたのは、部下を保護する責任感に徹したことにある。寛治五年(一〇九一)彼の家来の藤原実清と、彼の弟義綱の家来の清原則清とが、河内(大阪府)にある領地の所有権をめぐって争った。義家と義綱とはそれぞれの家来を保護するために戦端をひらくまでになった。当時、武勇の唯一の家であった源氏が、一族のあいだで戦いをおこし、戦禍が都の京都まで波及しそうになったので、朝廷(院庁)や京の町の住人は恐怖につつまれた。「天下の騒動、これより大なるはなし」といわれた(『百錬抄』)。関白の藤原師実が調停に乗り出した。「相手側が襲撃してくるとの風聞があるので、防備のために兵をととのえているにすぎない。こちらから相手を攻める意志はない」というのが義家、義綱双方のいいぶんであった。
朝廷(院庁)は戦乱を未然に防ぐという趣旨のもとに、宣旨(院の命令文書)を五畿七道にくだして、この戦いのために諸国から兵士が上京することを禁ずるとともに、諸国の百姓が田畠を源氏に寄進することを禁止した。
都の近くで武士の棟梁の義家が戦いをひらく気配が生じ、それが諸国につたわり、義家から恩顧をうけた地方の武士が敏感にそれに応じてかけつける姿勢をとったところに、義家と地方武士とのあいだの主従関係の絆が、いかに強靭なものであったかが知られよう。院庁が、源氏に田畠を寄進する百姓に禁令を出したことは、源氏の勢力をおさえるためであったが、禁令を出さざるをえなかったほどに源氏が百姓の信望を集めていたわけで、貴族の支配体制をつきくずしていった武士の底力というものが、義家に対する名声や、院庁の禁令などに感じとられると思う。義家と義綱とは兄弟関係のあいだがらであるが、部下のためには兄弟のあいだがらという関係をとおりこしたからこそ、義家は武士の棟梁として大をなしたのである。