源義家は源氏の棟梁として承徳二年(一〇九八)昇殿を許されたが、院政を開始した時の権力者白河上皇は、源氏のみの勢力伸張をよろこばなかった。白河は伊勢平氏を「侍(さぶらい)」として身辺に仕えさせ、伊勢平氏も六条院に所領を寄進して結びつきを強めた。六条院は白河の第一皇女媞子(ていし)内親王没後、その居所を仏堂に改めたもので、白河はそれを契機に出家し法皇となった。当時の伊勢平氏の代表者は平正盛であるが、正盛は六条院への寄進後、若狭守に任命された。白河法皇の御願寺の尊勝寺の曼荼羅堂を造進するなど、正盛はその結びつきを強化し、院の北面の武士として白河に仕えた。
嘉祥元年(一一〇六)源義家が死去すると、粗暴の振舞いが多かった二男の義親が追討されることになった。追捕使には平正盛が任ぜられた。嘉祥二年暮に追捕使は出発し、翌年正月には義親の首を携えて凱旋した。あまりに簡単に義親が滅されたので、この後もしばしば義親を自称する者があった。
義家が死去し義親が追討されて、源氏は棟梁の地位をめぐって内紛を起す。義家の長子義宗は早死していたし、三男義国は関東足利氏の婿となっていたから、四男の義忠が後継者であった。ところが天仁二年(一一〇九)、何者かの襲撃を受けて死去した。義家の弟の義綱やその三男の義明らが犯人の一味として、追討を受けることとなった。追討使は義親の子の為義である。義綱の子供たちは全て自殺、義綱も佐渡に流された。為義が棟梁の地位についたのであるが、当時一四歳でとうてい平氏に対抗できなかった。
白河が大治四年(一一二九)死去すると、鳥羽上皇がかわって院政を行なった。この最初の叙位では、平正盛の子の忠盛が正四位下に叙せられた。やがて鳥羽御願の白河千体観音堂(得長寿院(とくちょうじゅいん))造営の賞として、長承元年(一一三二)に昇殿を許され、貴族中の貴族ともいうべき殿上人となった。こうして平家は着々と基盤を固め、保元の乱(一一五六)・平治の乱(一一五九)を通じて権力を手中にした清盛の時代をむかえる。しかし一方では院を中心として決して清盛の全盛期を歓迎しない人びとがいた。
安元三年(一一七七)五月、後白河上皇の院の近臣の藤原成親・師光・成経や僧俊寛らは、京都東山の鹿ケ谷の俊寛の山荘で平氏討伐を謀った。治承四年源頼政は以仁王(もちひとおう)を奉じ宇治に挙兵し敗死した。この後寿永四年(一一八五)平氏が壇の浦に滅びるまでの争乱を治承・寿永の争乱という。治承・寿永の争乱は、源頼朝による武家政治の創始を導き出したもので、日本歴史上に画期的な事件であった。この大規模な争乱に多くの武士が参加したが、河内地方の武士団もさまざまな形でこの争乱に参加していった。
治承四年(一一八〇)の以仁王の挙兵のまえに、源頼政は以仁王にむかって、あなたの令旨が出るならば諸国に応ずる武士が多いことを奏上し、摂津の多田次郎朝実・手島冠者高頼・太田太郎頼基らとともに、河内国では石川郡を知行する武蔵権守入道義基やその子の石河判官代義兼がいることを述べた(『平家物語』)。
石川義基は河内源氏の後裔で、石川郡東条(ひがんじょ)(南河内郡太子町)の石川荘を本拠として、武士団を形成していた。治承四年四月源頼政が以仁王を奉じ、平氏追討の令旨を諸国の源氏に伝えたが、そのことが露見し、五月、以仁王と頼政は近江の園城寺から奈良に逃れようとして宇治川に敗死した。しかし諸国の武士は相ついで蜂起し、同年八月には源頼朝が伊豆に、九月には源義仲が木曽で挙兵した。石川源氏の義基・義兼父子も平氏にそむき、頼朝に心を通じ、東国へ向かう動きを示したために、翌治承五年二月、平氏の遣わした討手の源大夫判官季貞・摂津判官盛澄のひきいる三千余騎に石川郡の居館を攻められ、わずか百騎ばかりで一日戦ったが、義基は討死にし、義兼は重傷を負うて捕えられた。
義基の首は平安京の都大路を渡されたのち獄門にさらされ、義兼と義資(義基の弟)および、紺戸先生(こむこのせんじょう)義広らは投獄された(『平家物語』)。しかし、その後の木曽義仲の入京、ついで平氏の都落ちの混乱に乗じて、義資は獄を脱して石川荘に帰り、頼朝に気脈を通じて義仲に派遣した樋口次郎兼光らの軍勢から逃れるなどのことがみられたが、義仲が源範頼・義経の軍に敗れると、同年六月四日義資は鎌倉に至り、頼朝によって「河内源氏随一の者」とされ、のち鎌倉幕府の御家人になった(『吾妻鏡』)。これ以降の動向は中世編にゆずりたい。