元慶七年(八八三)、観心寺(現河内長野市)では、本堂以下の建物や、所蔵する経典や宝物、そして寺領荘園を書きあげた観心寺勘録縁起資財帳を作成している(古代六九)。寺領荘園は、河内国に一一荘(錦部郡二荘、石川郡八荘、古市郡一荘)、紀伊国に三荘、但馬国に一荘ある。石川郡八荘とは、佐備(さび)・大友(おおとも)・新開(しんかい)・田舎(いなか)・仲村(なかむら)・杜屋(もりや)・切山(きりやま)・東坂(あずまざか)の各荘であるが、このうち佐備・大友二荘は富田林市域内にある。佐備とともに大友も南北大伴町として地名を今に伝えるが、次に記す記載内容から、両荘の所在地の正確な位置が復原されている(第一巻古代編二章三節)。市域内荘園の、初見史料である。なお、仲村荘は河南町、杜屋・切山・東坂荘は千早赤阪村にあった。新開・田舎荘の所在地は未詳である。
佐備・大友荘は、観心寺勘録縁起資財帳には、次のように記されている。
一佐備荘
在物萱葺三間屋一間
水田壱町壱段百五十歩
陸田壱町参段佰歩
林地弐町漆段
二条市原里十坪二段 十二坪二段
杭原里卅六坪三段 佐備里十三坪一段
楊谷里廿四坪二段百五十歩
三条墓廻里卅六坪一段
右、貞観十一年六月九日民部省施入。
一大友荘
在物
丸木倉一宇
水田漆段参佰拾捌歩
三条小野里二坪二段 三坪二段十六歩
九坪一段 十六坪一段
廿九坪三百二歩 度己呂里八坪一段
陸田壱町 林肆町
右、貞観十一年六月九日民部省施入。
この記載によって、両荘とも、水田・陸田・林地からなること、陸田・林地は総面積が一括して記されているのに対して、水田は条里坪付(つぼつけ)が明示されていること、佐備荘には萱葺(かやぶき)の三間屋が一軒、大友荘には丸木造りの倉庫が一軒付属していること、両荘とも貞観一一年(八六九)六月九日に民部省から観心寺に施入されたこと、などを知ることができる。
資財帳の冒頭には、観心寺の草創の事情などについて、次のように記している。すなわち、空海(くうかい)の門弟実恵(じっけい)が建立し、天長二年(八二五)から実恵の門弟真紹(しんしょう)が居住して道場の建設をすすめて観心寺と号し、承和三年(八三六)真紹の申請により一五町ばかりの寺敷地が太政官符によって認められ、さらに貞観一一年定額寺(じょうがくじ)に列せられ、真紹の師資相承が認められたという。観心寺の草創に関しては、役小角(えんのおづぬ)の開創、空海の遺跡とする別の所伝もあり、また実恵や真紹の居住についても年次を異にする史料があって、ここではこの問題に深入りすることはさけておくが、貞観一一年に観心寺は定額寺に列し、民部省から寺領荘園として施入されたことで、佐備荘・大友荘は、観心寺領荘園となったのである。
定額寺とはどのような寺をさすのか、学界では種々の意見があって一致をみていないが、要するに国家の公認をうけて大寺や国分寺に准じる寺格を与えられ、それにふさわしい保護と統制とを受けている寺のことである。観心寺では、定額寺となる以前から、太政官符によって寺敷地を認められ、また河内国衙や錦部郡司の許可をうけたり、信者から寄進されたり、墾田を買得したりして、寺領の集積をはじめていたが、定額寺に列する直前、佐備荘・大友荘と同日付で、錦部郡高田荘水陸田五町四反(同荘野地三〇町は貞観九年に国判により寺領となる)、石川郡新開荘・田舎荘・仲村荘・切山荘・東坂荘が、民部省符によって施入されている。定額寺となることで、国家の保護をうけるようになり、寺領はいっきょに拡大したのである。