佐備荘・大友荘ともに、荘園とはいっても、陸田(白田ともいい、五穀を作る乾田で、水田に対する用語)と林地がややまとまった面積をもつものの、水田は小面積で、しかも散在していた。佐備荘の水田は、二条市原里・杭原里・佐備里・楊谷里・三条墓廻里の五里、全面積一八〇町歩の中に、わずかに一町一反一五〇歩があったにすぎない。もっとも観心寺領佐備荘以外の一七八町八反余はすべて水田であったとはかぎらないが、条里制が施行されているからには大半が水田であったと思われる。右の五カ里のごくごく一部が、観心寺領佐備荘なのであった。おそらく口分田として班給されていない乗田(じょうでん)が、観心寺に施入されたもので、他の水田は、農民に班給されている口分田であったと思われる。それでも佐備荘には、萱葺の三間屋があった。荘園経営のための現地事務所であろう。また大友荘には丸木造りの倉があった。収穫物を一時保管する倉庫であろう。
佐備荘・大友荘ともに、水田は散在する小面積でしかないことからしても、専属の住民がいたとは思われない。乗田の耕作同様、周辺の農民に小作させていたものであろう。ところで施入された水田は小面積でしかないが、陸田を水田に、林地も陸田や水田に開墾することも意図されていたかもしれない。現地事務所や倉庫は、開墾をすすめるうえにも、必要な施設であった。
観心寺勘録縁起資財帳に記される佐備荘・大友荘の姿は、およそこのようなものである。貞観から元慶のころは、律令制の土地制度が、なお原則としては維持されていた。律令制下の土地制度とは、第一巻でくわしく述べられているように、公地公民制を大原則としている。その中から、奈良時代に墾田(開墾田)の永世私有が認められたことから、貴族や大寺院などが開墾にのりだし、土地の私有である荘園制がはじまった。そして観心寺は、開墾をすすめる主体、すなわち荘園領主として、南河内の一角に登場した。高田荘の野地三〇町は、おそらく水田として開発可能な土地を含んでいたものと思われる。しかし既成の水田は、一部の乗田などを除けば、大部分が口分田として公民(農民)に班給されており、一定地域を囲いこんで荘園として認められることはない。また水田耕作に不可欠な河川や山林原野は、公私利を同じくすべきもので、これまたひろい地域を囲いこむべきものではない。こうして既成の水田が荘園となる時は、佐備荘・大友荘のように、散在したものとなるのが通例であった。いうなれば公田のすき間に、荘園があった。佐備荘・大友荘の姿は、公地公民制の原則がなお生きている時代に成立した荘園の姿を、よく示しているのである。