龍泉寺氏人の私領

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田堵の中には、公田や荘園の請負耕作のほか、新しい耕地の開墾に精をだし、あるいは荒廃した公田を再開発する者もいた。それら開墾地や再開発地は、公領に対して私領とよばれた。中央の下級官人などの中にも、地方に下って田堵らに私領を開発させ、私領主となり、私営田を経営する者もいた。

 天喜五年(一〇五七)、龍泉寺の氏人宗岡公明(むねおかきみあき)と、龍泉寺権俗別当・俗別当の連名で、氏長者公重(きみしげ)が強盗に殺害され、住宅も焼失して文書を焼失してしまった龍泉寺領三カ所について、河内国司と在庁官人の証判がほしいと申し出て、申請のとおり証判をうけた史料がある(古代七六)。この史料などを用いて、龍泉寺の草創の由来については、すでに第一巻で述べられているのでくり返さないが(第一巻古代編三章二節)、ここで注目したいのは、

「龍泉寺処処領地参箇処」とは、

  一、寺敷地山内参佰町 在河内国石川東条

  一、紺口荘水田等氏人私領家地

  一、山地壱処 在古市郡 石川両郡 科長郷

と記されていることに関してである。龍泉寺の創立者宗我(曽我)(そが)大臣の子孫という氏人らは、紺口(こんく)荘で、陸田里二坪六段、参坪七段、四坪五段などと散在する、計一〇町六段余と下来堂太尾南北一〇町の「私領」や「家地」をもっていたと記されている。これらの私領がどのようにして形成されたものか、またどのような性格の私領なのか、検討する史料は伝えられていないが、「私領」と主張できる権利をもっていたと一応考えてよかろう。なお紺口荘は、『和名鈔』に記される紺口郷が荘名となったもので、千早赤阪村の水分辺が荘域に比定されているが、佐備川上流の龍泉寺近傍まで荘域であった可能性があろう。

 ところで右の史料は案文(写)が伝わるのみであるが、在庁官人や国司が署判したたしかな原本を写したもの、とするには、問題がのこる。氏長者公重が強盗に殺害されたのは、実は天喜四年から二百年余前の承和一一年(八四四)のことである。承和一一年にすでに、右に掲げた三〇〇町の寺敷地、山地一所、紺口荘水田のほか、さらに散在する三〇町歩以上(史料は前欠で、冒頭を欠き、全面積は判明しない)の寺田、および和泉国日根郡の「塩山参佰五拾町海浦等在家人」を書きあげて、保証刀禰や在庁官人の証判を受けた文書の案文が作成されており、また寛平六年(八九四)付でも、天喜と同じ内容の文書案が作成されている(『春日大社文書』二巻)。寛平六年に国衙の証判を受けたことは天喜五年の文書にも記されており、天喜五年の文書は、寛平六年の国衙証判の再確認を要請する形をとっている。

 こうして龍泉寺氏人の要請は天喜五年にはじめておこなわれたのではなく、すでに承和一一年になされていたことになるのであるが、承和一一年のころはなお律令制の原則が生きていた。律令制の原則では、散在する寺田や坪付を記した紺口荘の水田はともかく、「谷々水田」を含む山地一所や寺領山地、和泉国日根郡の塩山が、四至を記すだけで、その範囲内すべてを寺領として認めることはあり得ない。承和一一年の文書は、後世に作成されたものと考えられる。観心寺にも「北は龍泉寺地并(なら)びに石川郡境を限る」など四至を示した錦部郡一〇〇〇町、石川郡五〇〇町を寺領とする、承和四年の年紀をもつ観心寺縁起実録帳写があるが、承和作成の原本があったとは考えられないし、高野山にも、同じく承和年間に空海が作成したという、広大な面積を寺領とする「御手印縁起」があるが、これまた承和当時のものとみることはできない。龍泉寺の文書も同様で、承和一一年ごろから、史料面に示されるような私領を龍泉寺氏人がたしかにもっていた、と考えることはできない。

 だが、龍泉寺氏人の私領に関する一連の史料の最終年紀、つまり天喜五年のころには、私領について、古くから国衙の証判をうけていた、と強く主張せねばならぬ必要にせまられていたのであろう。それが、一連の文書が作成された背景の事情であった、と考えられる。

写真5 龍泉寺庭園 国指定名勝