市域内の荘園

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では、富田林市域やその近傍には、一二世紀以降、どのような荘園があったのであろうか。市域内外の主要な荘園について、ここでまとめて概観しておこう。

図1 富田林市域と周辺の荘園分布図

 まず市域内には、足力(こぶら)荘、支子(志)(きし)荘、宇礼志(うれし)荘、それに甘南備(かんなび)保などがあった。

 足力荘は、江戸時代には彼方(おちかた)村・廿山(つづやま)村・錦郡(にしこり)新田などが足力郷に含まれるといわれているところから(「狭山藩村方明細帳」)、この付近にあった荘園と推定される。興福寺領の荘園で、文永二年(一二六五)、藤原氏氏長者一条実経(さねつね)の春日社参の準備のため、狭山荘(現大阪狭山市)など他の興福寺領諸荘とともに、杣山(そまやま)に入って木柴を伐り出す人夫五人などが課されたことが判明する(「中綱賢舜記」文永二年一〇月条 内閣文庫蔵大乗院文書)。しかし足力荘に関する史料はきわめて乏しく、興福寺領となった経過は判明しないし、興福寺領荘園の史料が比較的豊富になる室町時代には、足力荘はもはや興福寺領としては所見しない。鎌倉時代にはたしかに興福寺領であったが、室町時代までに実体はなくなったようである。ただし応永一八年(一四一一)に作人僧了見(りょうけん)が「河内国錦部郡足力郷之内北峯字栗坪坂上」にある田地半二〇歩を天野山金剛寺に寄進しているように(「金剛寺文書」二四二『河内長野市史』五。以下金剛寺文書の引用は本書により、本書の文書番号を示す。)、地名としての足力郷は室町時代にも用いられている。

 支子荘は、現喜志付近にあった荘園と考えられる。藤原氏の氏長者が代々相伝し、殿下渡領(でんかのわたりりょう)(摂録渡荘(せつろくわたりしょう)ともいう)とよばれる、摂関家藤原氏がもつ基本的な荘園の一にかぞえられている。嘉元三年(一三〇五)の摂録渡荘目録には、東北院(藤原道長(みちなが)の娘彰子(しょうし)の御願寺)を本家とする荘園グループの中に、河内国では輪田荘、朝妻荘、若窪荘(いずれも現在地は未詳)とならんで支子荘が記され、三条宰相実任(さねとう)に与えられ、免田二〇町、年貢米八〇石であることが判明する(『九条家文書』一)。暦応五年(一三四二)の同目録にも同面積、同年貢高で記され、隋身(ずいじん)(貴人の警固役)の武次(たけつぐ)が拝領したことが判明する(同上)。三条実任や隋身武次は、領家として支子荘を知行していたわけである。支子荘も、殿下渡領となった由来は未詳で、荘園の範囲も確定することもできないが、鎌倉・室町時代に関しては若干の史料があり、後にあらためてふれる。

 ところで喜志の付近には、いまひとつ岐子荘があった。すなわち、弘安四年(一二八一)に、西琳寺(現羽曵野市)に宛てて、四至内の殺生禁止などを命じた太政官牒(大和西大寺文書『鎌倉遺文』一九)によれば、四至のうち南限は岐子荘で、「山門西塔領たるに依り、往代禁断殺生」と記されている。ついで文和二年(一三五三)の妙法院当知行目録案(妙法院文書)にも、西塔宝幢院管領の荘園の中に、岐子荘があげられている。山門(比叡山)西塔領の岐子荘があったことは明白である。山門西塔領の岐子荘と、殿下渡領の支子荘との関係を明示する史料はないが、両荘はそれぞれ領主を異にする別荘と考えるべきであろう。

 宇礼志荘は、嶽山・金胎寺山西麓の嬉(うれし)付近にあった荘園である。平安時代後期いらいの興福寺領荘園で、中世には興福寺大乗院領となり、面積や、荘官組織、課役の全容などを示す史料があり、次項でくわしく紹介する。

 甘南備保は、康和五年(一一〇三)甘南備付近に設定されていた、朝廷造酒司の便補の保である。造酒司とは、朝廷の年中行事や仏事・神事用の酒・酢を造る工房で、原料の米は河内はじめ一二カ国に貢進させていた。ところが河内・大和・和泉・摂津の四カ国では、国司はその米の貢進を特定の地域に割り当てていた。このような方法を、便宜上補する意味で、「便補(べんぽ)する」といい、その地域は「保」とよばれることが多い。これが便補の保で、甘南備の地は、平安・鎌倉時代には、酒造米の産地であったわけである。便補の保は荘園ではないが、国衙の課役は負担しなかったはずで、その実体は荘園に近いものであった。甘南備保は、龍泉寺領の一部をさいて設定されていたようで、嘉禎四年(一二三八)に龍泉寺の所司等がその返還を求めて訴訟をおこない、甘南備保の便補の保としての歴史も、その訴状の中で述べている。くわしくは次章でとりあげる。

写真7 現在の甘南備 楠母神社跡地より北方をのぞむ。

 以上が市域内のおもな荘園と便補の保の概略であるが、他に、次に述べる石川荘の荘域が富田林市域内にもまたがっていた可能性がある。このほか、足力荘とともに興福寺領として龍泉荘があったが、龍泉荘は弘長二年(一二六二)のころ興福寺領であることが判明するだけで(「略安宝集」大乗院文書)、他に史料を得ない。なお佐備荘は中世の荘園としては所見しないが、地名としての佐備(佐美)は、史料の上にしばしば登場する。