市域の東側には、河内源氏源義家(よしいえ)の六男義時(よしとき)が本拠をすえ、以後石川源氏を称することになった石川荘があった。建永二年(一二〇七)の僧深慶(しんけい)某寺領注進状(正木直彦氏文書、『鎌倉遺文』三)には、康治二年(一一四三)の石川荘の坪付を引用している。史料には一部欠失もあるが、石川荘は石川東条の杜屋・旦妻・檪田・神田・切山・三嶋・木屋・鏡田・鴨入・早安・依宜・六・季兼・菅田・下戻杜・妻安・戸・斤量・谷麻・古戸・宗田・六田・斤立・楊田・五百田・道多良・杜田・少洞・田古・荒水・山下・田本の各里にわたり、約七〇町歩からなることが判明する。各里の現地名をすべて比定することは困難であるが、現河南町を中心に、杜屋・切山は現千早赤阪村に森屋・桐山の地名があるように一部は千早赤阪村にかかり、千早川流域に石川荘は設定されていたとみられ、富田林市域内にも一部かかっていたのではなかろうか。なお中世の石川荘は、康治二年の坪付のままではなく、田畠の集中化がおこなわれて再編成されていたかもしれない。石川源氏は、南河内を代表する在地領主の一人として活躍することは次章で述べるが、その本拠地石川荘も、平安時代末期には高倉(たかくら)天皇皇妃七条院に寄進されて皇室領となり、正安四年(一三〇二)の室町院所領目録によれば、後堀河(ごほりかわ)天皇皇女の室町院が伝領、一部の本家職は別相伝として将軍九条頼経(よりつね)から一条中納言が伝領した(『鎌倉遺文』二八)。また建長二年(一二五〇)の九条道家(みちいえ)初度処分状によれば、四条天皇墓所の泉涌寺(現京都市東山区)新御堂領として式乾門院から石川荘が寄付されている(『九条家文書』一)。なにぶん石川荘は大荘で、荘園領主の権限も分化していたのである。
元慶七年(八八三)の観心寺勘録縁起資財帳に記された錦部・石川郡の荘園は、東坂荘以外は観心寺領として維持されることはなかった。かわって観心寺の近郷が再編成され、寿永元年(一一八二)を初見に、観心寺荘の荘名があらわれ、やがて観心寺荘は観心寺七郷(村)と称される。七郷とは、鳩原・太井・小深・石見川・上岩瀬・下岩瀬・小西見の各郷である。なお鎌倉時代初期では観心寺は禅林寺(現京都市左京区)の末寺で、観心寺荘も禅林寺領ということになる。しかし南北朝時代以後観心寺に対する信仰が深まるとともに、南朝等から観心寺へ新たな荘園所職の寄進がおこなわれ、観心寺はいわば独立の荘園領主となる。
河内長野市の市街地付近には、長野荘があった。支子荘と同じく殿下渡領の一で、法成寺領の内にかぞえられ、嘉元三年(一三〇五)の殿下渡領目録では田五六町、米二〇石、藤原氏の祖廟多武峯の知行と記され、暦応五年(一三四二)の同目録では葉室(はむろ)大納言の知行と記されている(『九条家文書』一)。
この長野荘内に、天野谷が含まれるとする史料がある。天野谷には、天野山金剛寺がある。金剛寺は、奈良時代行基(ぎょうき)の開創と伝えられ、承安二年(一一七二)和泉国大鳥郡出身の僧阿観(あかん)が空海の御影をまつって再興(事実上の創建か)し、阿観はさらに鳥羽天皇皇女の八条院に祈願所として金剛寺を寄進した。八条院の保護を求めて金剛寺の興隆を期したわけであるが、効果はさっそくにあらわれて、治承四年(一一八〇)錦部郡の豪族源貞弘(さだひろ)が私領田畑を寺領として寄進し、ここに寺領の基礎ができた。しかし折から源平合戦がはじまって寺領をめぐる紛争がおこり、南河内の源平内乱期をいろどることになる。くわしくは次章で述べるが、観心寺とともに金剛寺も、中世南河内地域の歴史に数々の話題を提供するばかりでなく、両寺はともに豊富な古文書を今に伝え、南河内の地域史の上にも多くの史料を提供してくれており、次章以下で両寺伝来の古文書も利用していくことになる。
錦部郡の南部一帯には、石清水八幡宮(現京都府八幡市)領の甲斐(かい)荘・伏見(布志見)(ふしみ)荘があった。平安時代後期には、両荘とも散在型の荘園で、しかも両荘互いに入り組んでいた。延久四年(一〇七二)の太政官牒(『平安遺文』三)によれば、甲斐荘は、葦谷山四八町九反、甲斐宅一処、今宅一処、東宅一処、御敷野栗林四町、佐太山地一二町、佐美蘇河会山地五八町、新居地山一町三反、栗原里二坪八反、上原山地二反、岡本地林一町五反、郡殿栗林二町、辻山地四反、豊国殿地二反、大栗栖地一町、大井山地五町八反余、高田地五反、さらに宮道里・社里・狭田里・久保田里・堅田里外にわたって計七町五反余、一二条天野里八反、葦谷西四至内字向栗栖地二反、川会山西辺地一町五反、字東平野北畠三反、同西平野畠三反、同南少平野畠六反、同東平野南畠三反、文有行畠三反、字窪宅地三反、門田里四反と記されている。いっぽう伏見荘は、槻本里・川原里・山守里・中島里外・正里・猪垣里・蝦野里・萩原里・向江・井尻里・大野里・門田里・佐田里外・久保田里・天野里・畠田里・山田里にわたって計五町二反余の田畑が記されている。錦部郡一帯の墾田をはじめ栗林・山地などが逐次集積され、荘園経営の拠点として甲斐宅などが設けられたものとみられる。ところでこうした散在性は平安時代末期以降しだいに克服されるのが通例で、甲斐・伏見荘の場合も整理が進んだものと思われ、甲斐荘は室町時代まで荘名が史料上に散見するのに対して、伏見荘は延久以後荘名は見られなくなる。ただし鎌倉・室町時代の甲斐荘の荘域はわからないが、観心寺領をのぞく天見川から石川にかけての谷筋が甲斐荘であったとみられ、観心寺北方の山地が室町時代にも「甲斐荘本郷東山」とよばれており(「観心寺文書」一九六(『河内長野市史』四)。以下観心寺文書の引用は本書により、本書の文書番号を示す)、荘域の一部が富田林市域にかかっていた可能性もある。なお富田林市の南部伏見堂の地名は、伏見荘の名残かもしれない。また室町時代には、甲斐荘に本拠をおく土豪甲斐庄氏が活躍し、南河内を代表する国人となる。
以上が市域周辺の主要な荘園であるが、他に現太子町には興福寺大乗院領山田荘、現大阪狭山市にも同じく大乗院領の狭山荘があった。現河南町には皇室領の一志賀(いちしが)荘、現美原町付近には皇室領などの田井(たい)荘、現羽曳野市には叡福寺領の飛鳥(あすか)荘・西大寺領の壺井(つぼい)荘・延暦寺領の尺度(さかと)荘、現松原市には広隆寺領の松原荘などがあった。また天喜五年(一〇五七)には前述のように龍泉寺氏人らが私領と主張した紺口荘(現千早赤阪村)は、保元三年(一一五八)以降は石清水八幡宮領となっている。