荘園の内部構造

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以上、土地制度としての荘園の成立過程と、富田林市域内外にどんな荘園があったかを概観してきた。宇礼志荘には、さいわいに弘長三年(一二六三)の課役などを比較的くわしく書きあげた史料である宇礼志荘所当注文(内閣文庫蔵大乗院文書、『鎌倉遺文』一二)がのこされている。これを手懸りに、鎌倉時代の荘園の様相をさぐってみよう。

 さて宇礼志荘の田畠は、合計で三九町八反半三六歩からなる。このうち塩宮以下八件の寺社等の免田(めんでん)(荘園領主の興福寺大乗院への課役納入を免除し、代りに免田をうけている寺社等へ納入する田畠)計六町一反一二〇歩、荒(荒廃地)三町四反二七歩、河成(水害による荒廃地)八反二九〇歩、荘官の給田五町一反、合計一五町三反一三七歩(史料上の合計はあわない)を除く田畠二四町五反二〇歩が荘園領主に課役を納入する定得田畠である。荒・河成は計四町三反余で、総田畠の約一一パーセントを占める。宇礼志荘は嶽山・金胎寺山の西山麓から石川の氾濫原にひろがっており、自然災害を受けやすい地域だったのかもしれない。

 定得田畠は、佃(つくだ)一町、四斗代五町四反半、三斗代五町九反二六〇歩、畠一二町三反三〇歩に分類されている。

 佃とは、本来は特定の農民に耕作させず、種子・農料などは荘園領主がもって、荘内の農民の賦役労働で耕作させ、収穫物はすべて荘園領主が取得する直営地のことで、荘内でもっとも地味がよく多収穫を期待できる田地に設定されているのが通例である。しかし鎌倉時代に入ると直接経営の実態はくずれ、一般農民に分割して耕作させることが多くなったが、年貢率は一般の田地よりも高いのが通例である。宇礼志荘の佃も、一反別一石三斗五升と年貢率が記されている。ということは、荘園領主の直接経営ではなく、一般農民に割り当てていたと考えてよいが、一般の田地に比べて、年貢率は三、四倍の高率である。なお佃の中にも、荒田三五〇歩がある。

 一般田地の四斗代・三斗代は年貢率のことで、四斗代とは一反あたり四斗の年貢を出す意味である。荘園の年貢も、田畠の面積別に課せられる。三斗代・四斗代は興福寺領としては通例の年貢率である。佃はこれに比べると抜群の高斗代となるが、佃は次に述べる公事を負担しなかったはずで、佃は一般田地に比べて、良質の田地ではあっても、三、四倍もの収穫量があったわけではないと思われる。佃と一般田地の年貢高は、合計五一石九斗一升三合六勺である。

 畠は定得田のほぼ半数を占め、宇礼志荘の地域的な特色を示している。畠には大豆や麦が作付されており、当初は大豆や麦の現物が畠年貢として納入されていたと思われるが、弘長三年ですでに銭で納入されている。これを代銭納というが、次章であらためて述べるように、代銭納としてはかなり早い例である。

 年貢を負担する田畠、それに佃は、名田(みょうでん)に分割され、年貢負担者である名主が設定されていたはずであるが、この史料は名主・名田にはふれておらず、残念ながら農民の姿はみえてこない。

 荘官には、預所(あずかりどころ)・下司(げし)・公文(くもん)・職事(しきじ)があり、預所は田二町、下司は田一町・畠一町、公文は田一町、職事は一〇人で、田一町の給田畠をうけている。預所は、中司ともよばれて荘園領主と現地との中間に位置し、下司以下の荘官を指揮して荘園を管理し、年貢・公事を徴収することを職務とし、興福寺領では下級僧侶が任命されていることが多い。下司・公文は現地の武士など有力者が任命されるのが通常で、田畠の管理と年貢・公事の徴収にあたるほか、警察権などもにぎっていることが多い。ただし下司・公文個々人がどのような勢力であるかによって、職務内容や権限に差がある。宇礼志荘の公文には、南北朝時代のはじめごろには、甘南国幸(くにゆき)がなっていた。甘南国幸は、姓からみて甘南備辺に本拠をもつ武士と思われるが、南北朝内乱の過程で公文職を失い、甘南国幸跡の公文職は南朝から観心寺に与えられている(「観心寺文書」一三四)。下司については、所見がない。職事は沙汰人などともよばれることがあり、うけている給田が公文の一〇分の一の一人あたり一反であることからみても、下司・公文の下働きをする者であろう。