田畠の年貢は、農民が負担する課役の基本で、いつの時代にも軽かったためしはない。しかし佃の斗代に比べて、一般田地の年貢率がその三分の一、四分の一であることを考えると、佃は地味のよい田地であることを考慮に入れても、それほど過重なものではない、ともいえる。
荘園の課役には、田畠の年貢のほかに、公事と総称される種々の雑役や人夫役があった。公事は年貢と同等の、むしろ年貢以上の意味をもつ場合もあり、荘園領主の年中行事はじめ各種行事に密着し、それに必要な諸物資や人夫役などを徴される。年貢とともに各種の公事が課されることに、荘園の課役の大きな特色がある。
宇礼志荘の公事は、三月三日節供の雑菓子二〇合、七月七日節供の索餅(さくべい)(小麦粉と米の粉とを練って細長くし、縄の形でねじって油で揚げた菓子。七月七日の節供に、熱病除けのまじないとして配られる)二〇合、御菜米が毎月一斗、歳末雑菓子下司二〇合、公文二〇合(下司、公文が負担者であるが、実際は農民の負担)、炭三三籠、田堵(薯か)二〇合が、「領家御分雑事等」としてあげられており、ほかに大乗院の宿直六、七両月六〇日、興福寺への課役として、興福寺のもっとも大切な法会である毎年の維摩会(ゆいまえ)のさい続松(たいまつ)一〇〇〇把、御菜米毎月一斗がある。
預所は、前述の給田二町のほかに、四斗代の佃二町をもち、三月三日雑菓子一五合、七月七日索餅一九合、御菜米毎月六升、綿(わた)(きぬわた)一三両二分(代銭二貫文)、苧(からむし)一三両二分(代銭二貫文)、炭二二籠の収入があった。この収入からみても、宇礼志荘の預所は、興福寺のかなりの身分の僧が任命されていたものと思われる。
また、田地の所在地・面積や田品・所有者などを調査する検田の時には、白米一石、酒代の大豆二石六斗、茅莚(かやむしろ)一〇枚、薦(こも)一〇枚の雑事を、検畠の時も舂麦(つきむぎ)一石、酒代の荒麦三石を負担した。なお、検田のさいの酒代の大豆の項に、「京都御知行時者、石別一斗駄賃也」、検畠荒麦の項にも「駄賃同前」の注記がある。関係史料は伝わらないが、宇礼志荘は、もと藤原氏の荘園で、興福寺に寄進された後も、なお何らかの権限をもっていたのかもしれない。さらに、荘園領主から荘園現地に年貢受領や検田・検畠などにさいし派遣される定使(じょうし)も、地子(年貢)米口米(くちまい)(桝ではかる際の減損を補うため余分にだす米)一斗別五合、検田の時の白米一斗二升、酒代大豆一斗六升、検畠の時には蕎麦(そば)一斗二升、酒代荒麦三斗の収入があった。また下司・公文も、歳末雑菓子、田堵(薯か)の収入があった。
以上が、弘長三年の所当注文に記される公事と、預所・定使得分、検田・検畠のさいの雑事などのすべてであるが、預所得分には、公事のかなりの部分が含まれる。公事は、個々のものは負担が軽くても種類が多く、かつ荘園領主の年中行事と密着しているのが特色で、荘園とは、荘園領主の経済にくみこまれたものであることをよく示しているといえよう。なお公事は名主が負担したはずであるが、宇礼志荘の史料からは、公事などの負担の実態はみえてこない。
次に寺社の免田には、塩宮免・八幡宮免・結縁院免・善積院免・勝蓮院燈油・西安寺免・八幡宮論・足力論がある。塩宮免から西安寺免まではいずれも田のみ、畠のみ、あるいは田畠の一~三反である。塩宮(現在は天神社)以外は現存しないが、いずれも宇礼志荘内にあって人々の信仰をあつめており、荘園領主は荘園経営の円滑化のために、年貢の一部をさいて、免田を設定したのである。八幡宮論は畠七反、田二四〇歩とやや大きい免田畑が与えられているが、論は論議の略かと思われ、八幡宮でおこなわれた重要行事なのであろう。八幡宮は石清水八幡宮領に多いことを考えると、宇礼志荘の荘園は、もと甲斐荘か伏見荘の一部と重なっていたかもしれない。足力論には、田八反二四〇歩、畠一町二反、それに山荒一町七反と最大の田畠などが設定されている。同じく興福寺領の足力荘と関係する行事なのであろうか。
以上、中世史の舞台となる荘園の様相について、宇礼志荘の史料をもとに眺めてきた。富田林林市域内の荘園については史料は乏しく、荘園の様相といってもこの程度でがまんしなければならないのであるが、次に章を改めて、中世史の歩みをたどることにしよう。