平氏の石川城攻撃

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養和元年(一一八一)二月、源太夫判官季定(げんだゆうはんがんすえさだ)・摂津判官盛澄(もりずみ)がひきいる三〇〇〇の平氏の軍兵が南河内に進撃し、武蔵権守入道義基(よしもと)、子息石河判官代義兼(よしかね)を急襲した。義基父子方の軍兵は、鬨(とき)の声をあげ矢合せして入れかわりたちかわり数時間も手段の限りをつくして戦ったが、城内の軍兵は一〇〇騎ほどにすぎず、義基は討死し、子息義兼は、痛手をうけて生け捕りにされてしまった。義基の首級は、京都にとどけられ、大路を渡された。『平家物語』は、平氏軍による石川城攻撃をこのように記している(中世九)。ただし『吾妻鏡』は、石川城攻撃を前年治承四年(一一八〇)の冬としている。後述のように、一月六日に平清盛(たいらのきよもり)のもとに義基の首級がとどけられた史料もあるから、平氏による石川城攻撃は、養和元年の年末ごろであろう。公卿九条兼実(かねざね)の日記『玉葉』は、義基の首級とともに、生け捕りにされた義基の弟二人(義資(よしすけ)・義広(よしひろ))も罪人として都大路を渡されたことを記しているが、義兼の名前は記していない(治承五年二月九日条)。義兼は九条家の侍として九条家に出入りしていたから、その義兼について『玉葉』がこのとき何も記していないのは、あるいは義兼は石川城から逃亡したのかもしれない。石川義基は、すでに第一巻で述べられているように、源義家(よしいえ)の子義時(よしとき)にはじまり、壺井荘や石川荘を本拠とする石川源氏で、義基は義時の嫡子である。この源氏の一族石川義基を平家軍が攻撃することから、南河内方面での源平合戦の幕は切っておとされたのであった。

 治承四年は、全国的にも源平合戦が開始された年にあたる。その前年の治承三年、平清盛はクーデターをおこし、後白河(ごしらかわ)法皇を鳥羽殿に幽閉して政権を確立した。そして、治承四年二月には清盛の娘である建礼門院所生の安徳(あんとく)天皇を即位させ、清盛は外祖父となった。安徳天皇の即位によって皇位への望みを断たれた以仁王(もちひとおう)は、五月、源氏の一族源三位頼政(よりまさ)とともに挙兵したが、平氏の追討によってあえなく敗れた。しかし、平家打倒の挙兵をうながす以仁王の令旨(りょうじ)は、源氏一族の行家(ゆきいえ)らの手で、平治の乱後伊豆国(現静岡県)に配流されていた頼朝(よりとも)をはじめ諸国の源氏に伝えられた。以仁王の令旨をうけて、同年八月、伊豆の頼朝が挙兵し、九月には一族源(木曽)義仲(よしなか)が信濃国(現長野県)で挙兵した。頼朝は石橋山の戦いで敗れたものの、安房(現千葉県)に逃れ、その地方の武士の支持をとりつけてたちまちに勢力を挽回した。そして一〇月には、頼朝追討のため東下した平維盛(これもり)率いる平氏軍が富士川の戦いで大敗し、軍事貴族としての平氏の権威は大きくゆらぐことになった。それにひきかえ頼朝の勢威は高まり、関東をはじめ諸国から頼朝を支持する武士らが続々と集まりはじめた。そして治承四年の年末には、頼朝は、かつて父義朝(よしとも)が館を構えていた源氏ゆかりの地鎌倉で、最初は朝廷に対する反乱軍としてであるが、事実上の軍事政権を発足させたのである。

写真11 『平家物語』巻6 飛脚到来(『改正絵入平家物語』)