源貞弘の平氏への忠勤は、南河内方面での合戦に参加することにとどまるものではなかった。治承四年(一一八〇)富士川の戦いの勝利のあと、源頼朝は鎌倉に事実上の政権を樹立して東国の経営を目ざしたのに対し、信濃に挙兵した木曽義仲は、北陸道から、京都を目ざした。平氏では、養和元年(一一八一)に清盛が病没し、孫の宗盛(むねもり)が惣領となったが、平維盛をふたたび北陸道に派遣して、木曽義仲の進撃を阻止しようとした。ところが平氏の源氏追討軍は、寿永二年(一一八三)五月、越中(現富山県)と加賀(現石川県)の国境の倶利加羅(くりから)峠で、またまた大敗してしまった。
倶利加羅峠で敗退した平氏の軍勢の中に、源貞弘も加わっていたが、あえなく討死してしまった。もっともそのことを伝えるのは、江戸時代に作成された『天野山金剛寺古記写』(『続々群書類従』)だけであるが、源貞弘の「寿永年中」の死去は鎌倉時代初期から指摘されており、寿永年中には南河内での源氏と平氏との合戦が記録されていないことからすれば、源貞弘の倶利伽羅峠合戦での討死説は、多分に真相を伝えるものとみてよかろう。
源貞弘は、南河内で対立関係にある石川義基が源頼朝に同調することを決断したとき、あらためて平氏との結合を強め、「主」の義基の首級をあげたばかりでなく、木曽義仲追討軍にも参加していったのであろう。貞弘がひきいた軍勢には、一族・郎党のほか、一般の農民も、陣夫などのためにひきつれていたであろう。木曽義仲追討のために、平氏は、南山域和束(現京都府相楽郡和束町)の弓矢をもたない杣工を動員した例がよく知られている(興福寺文書、『平安遺文』八)。大規模な追討軍には、多数の非戦闘員が、陣夫などに動員されることは、源平合戦から一般化しつつあった。源貞弘と石川源氏という、地方的な小武士団の対立が、彼らを源平合戦にかりたてたばかりでなく、弓矢に関係のない南河内の農民をも、否応なしに内乱にまきこんでいったのである。
それだけに、源貞弘の討死は、南河内の歴史に大きな影響を与えたが、それは後に述べることにして、ここではまず、木曽義仲をめぐる合戦が南河内にも直接波及し、その過程で石川源氏が義兼を中心に復活し活躍することを述べよう。