樋口兼光の攻撃を前に長野城を去った源行家と石川義兼・同義資らはその後どうしたのか、直接の史料は伝わらないが、行家はひきつづき和泉方面に勢力を保持していたものと思われる。そしてついに源頼朝の配下に入ることはなかった。これに対して石川義資は、滅亡した木曽義仲にかわって平氏追討の宣旨をうけた源頼朝の推挙によって右兵衛尉の官位を復され、寿永三年(一一八四)六月四日には、頼朝に仕えるため鎌倉についた(『吾妻鏡』同日条)。対頼朝との関係では、石川義資は行家とは袂を分かったことになる。石川義資は、この後とも鎌倉にあって、頼朝に仕えている(『同』建久三年一一月二五日条)。石川義兼も、頼朝に味方して、南河内の本拠に帰ったものと思われる。
石川義兼は、これより先、前述のように源貞弘が討死したあと、貞弘の所領を軍事占領していた。その経過を直接示す史料はないが、建久六年(一一九五)の八条院庁下文案に引用する金剛寺住持阿観(あかん)の解状によれば、
去(い)ぬる寿永年中、貞弘死去の刻(きざみ)、義兼没官所と称し、押領せしむるの間、山内殺生といい、寺家狼藉(ろうぜき)といい、かたがた勝計(しょうけい)すべからず。
と記されている(「金剛寺文書」一)。貞弘は、前にもふれたように、治承四年(一一八〇)八月、平氏による石川源氏攻撃の直前に、東は小山田領、南は日野境、西は和泉境、北は小山田境をそれぞれ限る四至内の先祖伝来の私領を、金剛寺に寄進していた(「同」一)。この四至内は、天野谷とよばれてこののち金剛寺領の中心をなす地域である。ただし貞弘寄進の後国衙の課役を免除された田地は四町八反であるが(「金剛寺文書」二)、この寺領が、貞弘の討死を契機に、石川義兼によって、「没官所」と称して押領されてしまった、というのである。元暦元年(一一八四)の別の史料によれば、金剛寺の広恩講田ならびに神田二町五反に対する国司の免帳(国衙に対する年貢・課役を免除した文書)が、「貞弘家内」で散失したことは「郡内隠れ無」いという(「同」七)。石川義兼は、おそらく源貞弘の屋敷を破壊し、土地の権利に関する文書などもすべて奪いとったに相違ない。義兼の「没官所」と称する押領は、金剛寺領にとどまるものではなく、長野谷全体や貞弘の本拠長野荘に対してもおこなっており、長野城も、義兼の支配地域内にあったとみてよかろう。
「没官」とは、本来国家が刑罰としておこなう所領などの没収をいう。このころ石川義兼は国家の役人でも何でもなく、公式に没官を執行できる立場にはない。だから阿観の解状には「没官所と称し、押領」と記しているのであろうが、実は当初反乱軍として出発した源頼朝に味方する武士たちは、敵対する相手の所領を、没官と称して軍事占領するのを常とした。いわば反乱軍の気安さである。義兼の父義基は頼朝方の立場を明らかにして討たれ、石川源氏は一敗地にまみれたが、敵源貞弘の討死によって逆転の契機をつかみ、義兼は、没官所と称して、金剛寺領を含む貞弘の所領を、軍事占領したものと思われる。そこには、源平内乱期南河内の、きびしい軍事情勢があった。この時期の富田林市域内に関してはまったく史料は伝わらないが、おそらく石川義兼の軍事的制圧下にあったものと思われる(川合康、前掲稿)。