文治元年(一一八五)三月二四日、平氏は長門国(現山口県)壇の浦の戦いに敗れ、ついに一族は滅亡した。前述した播磨国室山の戦いで源行家・石川義兼らを破ったあと、平氏は摂津一の谷城(現神戸市)まで回復してきていた。しかし寿永三年(一一八四)正月、木曽義仲を滅亡させた源義経・範頼軍は、同年二月一の谷城を攻略した。平氏はついで文治元年二月讃岐国(現香川県)屋島でも義経軍に敗れ、そして壇の浦の滅亡となった。安徳天皇は平清盛の妻時子(ときこ)とともに入水して死に、平氏の惣領宗盛は生け捕りになった。
皇統のシンボルである三種神器は安徳天皇とともにあったが、宝剣は海中に没したものの神鏡と神璽(しんじ)は回収されて、四月二五日に京都の南郊鳥羽についた。このとき、武士では石川義兼と伊豆蔵人大夫頼兼(よりかね)・左衛門尉有綱(ありつな)が出迎えたと『平家物語』は記している(巻一一)。頼兼は源頼政の子、有綱は頼政の孫である。石川義兼は、義経らが西国に平氏を追討している間、頼兼・有綱の摂津源氏とともに、京都守備の任についていたのであろう。石川義兼の叔父義資は、木曽義仲滅亡の後鎌倉に参向したことは前に述べた。同じころ義兼もまた、頼朝方の態度を明確にしたものと思われる。
木曽義仲につづく平氏追討戦の間、源頼朝は鎌倉を動かなかった。壇の浦で生け捕りにした平宗盛らをつれて源義経は鎌倉にむかったが、頼朝は義経との会見を拒否し、相模国(現神奈川県)腰越から義経を追い返してしまった。一の谷の戦の直後から頼朝と義経との間には阻隔が生じていたが、ついに決裂したのである。頼朝には従ってこなかった源行家に対しても、同年八月、謀反が発覚したとして、頼朝は行家追討の指令を発した。平氏滅亡の後、源氏の内部で、頼朝対義経・行家の間が、こうして険悪となった。
同年一〇月、義経の奏請によって、頼朝追討を命じる後白河上皇院宣が義経に発せられた。行家は義経に同調した。しかし他に義経に同調する武士は、少なかった。一一月、義経・行家はいったん西国に退いて再起しようとしたが、大物(だいもつ)浦(現兵庫県尼崎市)を出帆して海上で遭難し、行方不明となってしまった。
いっぽう頼朝は、機敏に反応した。みずから駿河(現静岡県)まで出陣して義経・行家追討の構えを示すとともに、妻の父北条時政(ほうじょうときまさ)を一〇〇〇の兵とともに上洛させ、頼朝追討の院宣を発した後白河上皇をきびしく追求した。そして頼朝に宛てて義経・行家追討の宣旨を出させるとともに、義経・行家を捜索・逮捕して狼藉を鎮めることを名目に、頼朝が日本全国の軍事・警察権を掌握し、荘園・公領を問わず田一反別五升の兵粮米を徴収する権限を認めさせたのである。この結果頼朝は、内乱の間に頼朝と主従関係を結んだ配下の武士(これを御家人(ごけにん)という)を、荘園や公領の地頭に任命できるようになった。御家人を通じて、全国を軍事的に支配する体制ができあがった。いわゆる、文治の守護・地頭設置の勅許である。頼朝はさらに朝廷の改造も申し入れ、九条兼実を中心とする朝廷とした。新しい武士の政権としての鎌倉幕府は、事実上ここに発足したのである。
御家人制とよばれる主従関係は、武士たちが頼朝に会い名簿を提出して奉公を誓い、頼朝はその武士の所領を安堵(あんど)(保障)し、さらに新しい所領を与えるなどの御恩を与えることで成立する。石川義資は鎌倉に参向して頼朝と会い、御家人となったが、西国の武士は、出先の大将を通じて名簿を提出する便宜の方法もとられた。石川義兼は鎌倉に参向した形跡はないから、便宜の方法で御家人となったものと思われる。
御家人に対する頼朝の御恩は、本領を安堵して地頭に任命するほか、内乱中没官と称して占領した所領についても、その地頭に任命することで与えられた。御家人を地頭に任命するのは、内乱期の軍事占領を公認するものであった。
石川義兼も、前述のように没官所と称して押領したといわれる源貞弘旧領の天野谷の地頭職(しき)と下司職に任命されていた(職とは、中世の権利とそれに付随する義務に対する用語)(「金剛寺文書」一)。その年月は明らかではないが、文治元年地頭勅許後まもなくとみてよかろう。かんじんの石川源氏の本拠石川荘については史料は伝わらないが、本来の所職の安堵のほか、地頭職も与えられていたかもしれない。なお長野荘も源貞弘の旧領であるが、その地頭については史料上問題がのこるので、後に述べる。
石川源氏の源平内乱参加は、そのはじめに義基の討死という手痛い打撃をうけたが、義兼がたびたび変転した情勢を戦いぬいたことで、内乱参加の成果を結実させたのであった。なお支子(きし)荘に地頭があったことは後述するが、文治の段階で設置されたものではなさそうである。