文治四年(一一八八)正月、石川義兼は、東は高向境、南は日野境、西は和泉境、北は小山田境の四至内にある「私領天野谷山内」の田畠十余町を、金剛寺に寄進している(「金剛寺文書」一〇)。さきの源貞弘の寄進の四至と比べると東境が異なっており、天野谷の四至がやや拡大したようである。また貞弘が寄進したのは「先祖伝来の私領」であったが、義兼はたんに「私領」とだけ記している。そこにも、車事占領の既成事実を源頼朝から公認された歴史がよみとれる。
それはともかく、寄進の目的は、源平内乱の当初に討死した父義基と亡母の菩提をとむらうためで、それによって義兼の現世は忠臣の誉をうけ、子孫繁昌し、後生百年の証果を願う、と記している。源貞弘が寄進した四町八反に数倍する寺領を寄進し、貞弘のあとをついで金剛寺の大檀越となることで、源一族の影響力がなお残っていたであろう天野谷の支配の安定を期することがより直接の目的であったろうし、八条院の祈願所金剛寺は、すでに源頼朝が保護する寺でもあった。金剛寺は文治元年三月に、山内での御家人の狼藉を禁じる頼朝の禁制をうけている(「同」八)。その金剛寺の檀越となること自体、「忠臣」の行為であったともいえる。義兼の金剛寺への寺領寄進はこのような現実的効用をもつものであるが、寄進状に記された寄進の意趣は、鎌倉幕府のもと、御家人・地頭となった石川義兼の心意気を、よく示しているように思われる。
その心意気は、他の地頭・御家人にも共通するものであるが、地頭たちは、源頼朝の権威を背景に、より一段の勢力拡大を目ざして、活発に行動した。それは荘園領主や国衙の手に入るべき年貢や課役を押領することに他ならないが、建久元年(一一九〇)、河内国荘々の地頭らの押領を成敗すべしとの後白河上皇の院宣が源頼朝に下された。頼朝は河内国司源光輔(みつすけ)に照会したところ、「濫妨の輩」は、大江公朝(おおえきみとも)、北条時定(ときさだ)、それに石川義兼の三人であることが判明した。そこで頼朝は、三人それぞれにあてて濫妨停止を命じ、もし違反すれば地頭職を停止すると通達した(『吾妻鏡』建久元年八月三日条)。
大江公朝は後白河上皇の近臣で検非違使をつとめ、頼朝にも通じて、公領の山田郷(現交野市)の地頭となっていた。また北条時定は北条氏の一族で、北条時政の腹心であり、北条時政の代理、また頼朝の御使として京都に駐在していた御家人である。大江公朝は、「鎌倉(頼朝)の仰を蒙」ったと称して国司の命に従わなかった。北条時定は河内のどこの地頭職を与えられていたかはわからないが、国衙領に「陸奥所」という偽りの名を勝手につけて押領したという。義兼に対する頼朝の命令は伝わらず、義兼の濫妨の内容はわからないが、公朝・時定と同様に、頼朝の権威を笠に、南河内方面で活発に動いたのであろう。大江公朝はともかく、北条時定は御家人の模範となるべき立場である。その時定すらが頼朝からきびしく叱責されているところに、この時期の地頭・御家人の動きがよく示されているといってよい。
だが同時に、御家人たちをその軍事占領地の地頭に任じて軍事占領を公認していった文治元年地頭勅許の直後とは、頼朝の態度は大きく変わっていることでもある。いったん設置した地頭を、後白河上皇や荘園領主の要望によって、謀反人跡以外は停止することは、実は文治二年からはじまっていた。石川義兼の天野谷地頭職は、平氏に味方した源貞弘の跡、つまり謀反人跡であるから、停止されることはなかったはずであるが、紀伊国高野山領の地頭が文治二年正月九日に停止されているように、多くの地頭が停止された。建久元年までの河内国の地頭は、現存史料では右の三人以外は知ることができない。
いったん設置した地頭の停止は、頼朝の後退のようにもみえるが、この間頼朝が日本全国の軍事・警察権をにぎっていることには変わりはなく、体制をたて直した後白河法皇や朝廷と妥協はしつつも、戦時体制として出発した地頭制や武家政権を、平時の政権として安定させるためであったとも評価できる。文治元年一一月大物浦から姿を消した源行家は、和泉国にひそんでいたところを発見され、文治二年五月に処刑された。南河内の歴史にも少なからぬ影響を与えた行家の生涯はこうして終わり、河内はじめ畿内の源平内乱は完全に終息した。源義経は奥州に逃れたものの文治五年藤原泰衡(やすひら)に討たれ、そのあと頼朝は全国的に御家人を動員して泰衡を討った。奥州征討は、全国の御家人に源氏棟梁(とうりょう)を権威づけ、幕府の平時での安定を目ざすものであった。石川義兼ら河内の地頭三人へのきびしい叱責はこの翌年のことである。同年一一月、頼朝は内乱開始いらいはじめて上洛して後白河上皇に会い、右近衛大将に就任、建久三年、後白河上皇逝去ののち、征夷大将軍になった。ここに、河内源氏の末孫源頼朝を将軍とする鎌倉幕府は、名実ともに完成した。