承久の乱と南河内

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源頼朝が朝廷に対する関係を再度逆転できないまま正治元年(一一九九)に没したあと、幕府では有力御家人の間で抗争がおきた。その中から北条氏が抬頭し、執権(しっけん)として幕府を統率するにいたったが、承久元年(一二一九)三代将軍源実朝(さねとも)が暗殺され、源氏の将軍は三代で絶えた。建久九年(一一九八)に院政を復活していた後鳥羽上皇は、幕府打倒の好機とみて、承久三年五月、執権北条義時(よしとき)追討の兵をあげた。承久の乱である。北面の武士・西面の武士の後鳥羽上皇直属の武士のほか、上皇方に味方した武士は少なくはなかった。北条氏の抬頭を喜ばない、源氏ゆかりの武士の中には上皇方に味方する武士が多かったし、御家人の職務としてたまたま京都に勤番していて止むなく上皇方についた武士もいた。また荘園の下司など土豪の動員もおこなわれた。

 南河内方面では、後鳥羽上皇の信任あつい武将である藤原秀康(ひでやす)が荘園の土豪らの動員をおこなったようである。甲斐荘の下司国範(くにのり)も動員されたが、国範は「武備の器」(武力にすぐれた器量)ではなかったので、高野山に逃れたが、家を焼き払われたという(「宮寺縁事抄」(『鎌倉遺文』七))。戦闘に堪えない者まで、上皇方では動員をおこなったことが知られて興味ぶかい。富田林市域内でも、動員がおこなわれたかもしれない(なお、中世史料一六の錦織判官代は、近江の武士で、南河内の武士ではない。同「承久兵乱記」にみえる「河内判官代秀澄」は、藤原秀康の弟である)。

 上皇方には、こうして多数の兵力が集まったが、北条義時と頼朝未亡人北条政子(まさこ)を中心とする幕府の結束は乱れず、北条義時の弟時房(ときふさ)、息子の泰時(やすとき)を大将とする幕府軍は、義時追討の宣旨が発せられてからわずか一カ月後には京都を占領し、承久の乱は幕府軍の圧勝に終わった。なお藤原秀康は美濃国まで幕府軍迎撃のため出撃したが敗れ、宇治・勢多の合戦にも敗れ、奈良に潜伏、さらに河内讃良(さらら)郡にひそんでいたところを、一〇月六日捕えられた(『承久三年四年日次記』)。

 幕府軍の圧勝によって、幕府と朝廷の立場は完全に逆転した。ただし、承久の乱は後鳥羽上皇と近臣が中心となったもので、朝廷が全体として上皇方に立ったわけではなかったが、北条時房と泰時はそのまま京都にとどまって六波羅探題となり、戦後処理と朝廷の監視、西国御家人の統制にあたるようにようになり、武家支配は河内方面にもより深く浸透するようになった。

写真18 後鳥羽上皇をまつる水無瀬神宮 島本町