源平合戦による没官地は、ひとくちに五百余カ所といわれるのに対して、承久の乱の没官地は三千余カ所といわれる。それらの没官地は御家人らに恩賞として与えられ、新しく多くの地頭がおかれることになった。
甲斐荘は、承久の乱のころ、石清水検校成清(せいせい)の娘大弐局(だいにのつぼね)が預所(あずかりどころ)として知行し、地頭は為綱(ためつな)という者であった。ところが大弐局は上皇方についた按察中納言藤原光親(みつちか)の妻であったため、地頭為綱は、甲斐荘を敵方所領とみて押領してしまった。貞応元年(一二二二)幕府は、甲斐荘は石清水八幡宮領であって、按察家領ではないという理由で地頭の押領を停止し、押領した年貢米を返却するよう命じている(尊経閣所蔵文書、『鎌倉遺文』五)。また前述した甲斐荘の下司国範は、藤原秀康の動員に応ぜず逃亡して家を焼かれたが、それが幕府に対する奉公だということで地頭に補任された。石清水八幡宮では、その地頭補任は納得がいかないとして、停止を求めている(「宮寺縁事抄」『鎌倉遺文』七)。承久の乱を機に、南河内地方でも、地頭の動きがふたたび活発となった状況の一端を伝えてくれる史料である。富田林市域内の荘園でも、支子荘に地頭がいた史料がある。おそらく承久の乱後に設置された地頭かと思われるが、次節であらためてとりあげる。
市域内に一部かかっていたかと思われる石川東条・西条には、天皇の供御(くご)用の米を備進する御稲田(おいねでん)が設けられていた(中世七)。供御を備進する供御人には他の課役がかからないのが原則である。しかし、武士らは御稲田にも兵粮米を課し、そのため天皇の供御が妨げられているので停止してほしいという、供御を管轄する大炊寮(おおいりょう)の訴えによって、承久の乱直後の承久三年(一二二一)八月、幕府は御稲田に対する武士の狼藉を禁じる命令をだしている(『師守記』紙背文書)。山城・摂津・河内の御稲田一般に出された命令であるが、石川東条・西条も例外ではなかったであろう。
金剛寺は承久三年七月八日付で、六波羅探題二人の連署による、荘務や年貢運送の妨停止の下知状をうけている(「金剛寺文書」三〇)。承久の乱を機とするあらたな武士の動きが懸念されたからであろうが、この下知を得たにもかかわらす、すぐに武士の狼藉がおこなわれる。
前述した文治の地頭勅許のさい、国ごとに守護が設置されたとするのが一般的理解だが、河内・摂津・山城・大和などには、現存史料でみる限り、文治から守護が設置された形跡はない。興福寺領荘園が多い大和には中世を通じて武家守護が設置されなかったように、草創期の幕府は荘園領主に遠慮し、かつはこれらの地域は京都守護の管轄下においていたのであろう。その河内・摂津にも、承久の乱後守護が設置された。河内守護の初見史料は、承久四年正月、さきの六波羅探題の下知にもかかわらず金剛寺に守護所の使が乱入して狼藉するのを停止する金剛寺の本所仁和寺道助(どうじょ)親王庁下文である(「金剛寺文書」三九)。この時の河内守護は、幕府の有力御家人で相模の豪族三浦(みうら)氏である。
鎌倉時代の守護の権限は、ひとくちに大犯(だいぼん)三カ条とよばれて、謀反・殺害といった重大犯罪の検断(けんだん)(検挙と処罰)と、御家人が京都・鎌倉の守備に勤番するのを監督する大番催促(おおばんさいそく)に限定されており、一種の行政官であって、一国の支配者ではなかった。しかし守護所の使がさっそく金剛寺に乱入狼藉したように、御家人らが守護の権限を笠に活動することも多く、守護の設置は、それだけ武家支配の深まりを示すものであった。承久の乱を機に、南河内地方にも、鎌倉幕府政治の影響が、より直接に及んでくるようになったのである。
氏名等 | 在任期間 | |
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三浦義村 | ←承久3(1221).12→ | |
三浦泰村 | ←宝治元(1247).6(敗死) | |
北条久時 | ←弘安3(1280).7→ | |
北条氏一門 | ←元弘3(1333).5(滅亡) |
注1.鎌倉時代の河内守護は、いずれも在任期間を確認できない。← →は、前または後にのびる可能性があることを示す。
2.『日本史総覧』Ⅱによる。