殿下渡領(でんかのわたりりょう)の一荘である支子荘は現富田林市喜志付近にあったと推定されることは、第一章で述べた。鎌倉時代前期にその支子荘に地頭がいたことを示す史料がある。史料編には収載していないので、全文を引用しよう。
支子御庄沙汰人沙弥定西(さたにんしゃみじょうさい)謹しんで言上す。
宛て催さるる役夫工用途(やくぶくようと)米未進九斗九升の事
□件(くだん)の子細は、建永以後田数之減
□(一ヵ)町五段 地頭給田分
□(一ヵ)町 地頭押領田 下司名田なり。
□(五)段半 会賀(えが)・福地(ふくち)百姓を兼ね、彼の号を仮り、進済せず。
□(二ヵ)町五段半 河成
□(已)上、無足分五斗六升なり。今残る所未済四斗三升は、建永□(之)時所済銭一百文を以て二斗の代を納められ了(おわ)んぬ。仍(よ)って佰姓等其(そ)の旨を守り沙汰致すの処、今度銭□(一ヵ)百文を以て一斗の代を納めらると云々。仍って此の分未済出来の間、建永の如く完済能わず。早く政所(まんどころ)御□□□下給て、□□□□[ ]地頭張行の間、私催一切合期せず。此の旨先度申上候の処、関東に仰せ下さるべし、解状を進むべきの由、重ねて仰せ下さる。早く解状を進むべく候ものなり。仍って言上件の如し。
民部卿広橋経光(ひろはしつねみつ)の日記『民経記(みんけいき)』(「経光卿記」などともいう)寛喜三年(一二三一)一〇月記の紙背文書である。末尾がなく発信年月は確定できないが、本文中にみえる建永(一二〇六)以後、寛喜三年一〇月までの文書である。文書作成の目的は、平安時代末期から荘園・公領を問わず全国的にかけられるようになった、伊勢神宮の式年遷宮の費用である役夫工米(言葉の意味は、人夫役の代わりに出す米のこと)が、支子荘では九斗九升が未進となっていることについて、沙汰人(下司、公文の下にあって、農民から直接収納にあたる下級荘官)から言上したものである。前半では、未進九斗九升のうち五斗六升は、建永以後役夫工米を負担する田地が減少したことを述べている。建永年間にもかけられ、年次は確定できないものの、このたびも建永の田数どおりにかけられたものであるが、「河成(水害をうけて荒地となること)などと並んで、「地頭給田」が□(一ヵ)町五反、さらに□(一ヵ)町は下司名田を地頭が押領しており、これらが役夫工米を負担しない「無足」となっている。なお、会賀・福地はともに志紀郡(現藤井寺市付近)にあった後院(ごいん)(天皇の譲位後の隠居所)領の牧(まき)である。会賀・福地牧の住人は周辺に出作しながら、後院の権威を笠に耕作田畠に課せられる課役を負担しない例が、他にもみられる。支子荘にも出作してきていたが、役夫工米を負担しなかったわけである。
未進分のうちのこる四斗三升について述べていることは、富田林地方の貨幣経済に関する重要な史料なので、次項であらためてとりあげる。史料の末尾は一部欠字があって文意はよくとれないが、政所の命によって沙汰人が催促しても、地頭が何事かを張行していて、役人工米の徴収を期限どおりおこなうことができない。そこで沙汰人からこのことを政所へ言上したところ、関東(鎌倉幕府)へ申し入れるから解状(訴状)を出せとかさねて命ぜられたので、解状を近く進める、というのが後段の大意である。
支子荘の地頭は、一町五反の給田のほか、下司名田一町を押領し、さらに沙汰人の所務(しょむ)(年貢・公事などを徴収する事務)をも妨害し、関東に訴えられようとしたことが判明する。幕府の権威を笠に、支子荘の地頭も本来の権限をこえて非合法に勢力を拡大しようとしていたわけである。農民に対しても、おそらくきびしく課役のとりたてをおこなったであろう。ただしなにぶんにも史料はこの一点だけで、地頭の氏名も、はたして関東に訴えられたかどうかもわからない。ただ建永のころには地頭給田がなかったことからすると、承久の乱後に補任された地頭である可能性が高い。承久の乱後新設の地頭は、地頭の得分(とくぶん)(収入)について慣例がない荘園では、一一町ごとに一町の給田と反別五升の加徴米をとることが認められた。これを新補率法(しんぽりっぽう)といい、それを適用される地頭を新補地頭という。支子荘の面積は、後の目録によれば、前述のように二〇町歩とされるから、地頭給田一町五段はほぼ新補率法に近い。ただし、新補率法は旧来の慣例よりも地頭に有利で、慣例の得分をとる地頭(本補地頭)も結局新補地頭となることが多く、給田の面積は、地頭設置の時期をきめるきめ手にはならない。
鎌倉時代の富田林市域内の地頭についてはこれ以上のことは判明しないが、地頭の影響は、市域にも確実に及んでいたのであった。