承久の乱後三年にして北条義時が没し、ついで源頼朝の妻北条政子や幕府創業以来の宿老たちもことごとく世を去って、幕府政治は新しい段階に入った。北条義時のあとをついで執権となった泰時は、執権を二人制(執権と連署(れんしょ))にし、承久の乱ではともに京都に進撃した叔父の時房を今ひとりの執権に加えた。ついで泰時は、河内守護の三浦義村ら一一人を評定衆(ひょうじょうしゅう)に任命し、執権・連署とともに重要政務の評議にあたらせることにし、合議による幕府政治運営の体制をかためた。そして貞永元年(一二三二)には、守護・地頭の職務や裁判の基準など、それまでの武家社会や幕府政治の慣例を成文化した最初の武家法である御成敗式目(ごせいばいしきもく)(貞永式目)を定めた。
こうして武家政治は一段と充実するかにみえたが、北条氏に反発する有力御家人の抗争は、その後もおこった。三代将軍源実朝の暗殺後関東にむかえられていた摂関家出身の将軍九条頼経(よりつね)は、有力御家人の名越光時(なごえみつとき)らに擁せられてしだいに隠然たる勢力をもったが、寛元四年(一二四六)執権が北条経時(つねとき)から北条時頼(ときより)に替った機会をとらえて、名越光時が北条氏を倒そうとした。北条時頼は、機先を制して名越光時を配流し、九条頼経を京都に送還して、北条氏は反執権の動きを封じることに成功した。幕府の開創いらい、有力御家人は次々に滅ぼされてきたが、名越氏が失脚した後では、北条氏と比肩し得る有力御家人は三浦氏だけとなった。宝治元年(一二四七)六月、三浦義村の子で泰村の弟光村が名越光時(みつとき)の一味であったことを口実に、北条時頼はついに三浦氏を挑発し、三浦泰村以下一族与党二七六人が自刃して果てた。これを宝治合戦という。
宝治合戦は、三浦氏一族の討伐にとどまらず、諸国で三浦氏に味方した者に対するきびしい追求がおこなわれた。河内に対しては、宝治元年六月二二日付で、六波羅探題の北条重時(しげとき)から河内守護代にあてて、大要次のような命令が出されている(中世二〇)。
謀叛の輩(ともがら)(三浦泰村)の親類兄弟は、事情のいかんによらず召し取るべきである。そのほか京都の雑掌(ざっしょう)(代理人)・国々の代官や所従らについては、特別に命令はだしていないが、くわしく尋問し、注進にしたがって追って処分を決定する、と関東(幕府、執権時頼)から命ぜられているから、承知するように。ところが謀叛人の被官(ひかん)(家臣)だといって、有無をいわさず追捕・狼藉におよんでいる、という風聞がある。もしこれが本当なら、甚だよろしくない。そうした乱妨をやめて、事情を注進するように。
三浦氏一族はもとより、雑掌や代官・所従らも(雑掌以下は自動的に処分されるわけではないが)、追求の対象となった。いっぽうこれに名をかりて、謀叛人の被官だといいかけて追捕狼藉することもあった。後段はそのいわば暴走をいましめたもので、三浦氏一族とその関係者の追求がいかにきびしかったかを示している。
この命令が河内守護代に宛てられているのは、三浦氏が前述のように河内の守護であったことによる。ただし、相模・武蔵など関東諸国では、宝治合戦に関連して多くの人々が追捕されたことが『吾妻鏡』に記されるものの、河内ではその事例を見出すことができない。