宝治合戦によって三浦氏が一族もろとも滅亡したあと、鎌倉時代の河内守護については、ごくわずかな史料が知られているにすぎない。そのひとつは、弘安三年(一二八〇)七月二三日付で、毎年八月一五日におこなわれる石清水八幡宮の放生会(ほうじょうえ)の直前、八月一日から一五日までの殺生を禁断せよという太政官符(だじょうかんぷ)(朝廷の命令)をうけて、この旨を人々に守らせるよう、河内はじめ摂津・信濃・紀伊・日向の地頭・御家人らに下知すべきことを、陸奥彦三郎宛に命じた、執権北条時宗の命令である(中世二二)。この史料は、三浦氏以後の河内守護を知らせてくれるばかりでなく、宝治合戦以後の幕府政治の変化の一端を伝えるものともなっている。
陸奥彦三郎とは、北条久時(ひさとき)のこと。久時は、執権北条時頼のあと執権となった北条(赤橋)長時(ながとき)の孫で、のち永仁元年(一二九三)から五年まで六波羅探題(北方)をつとめ、その後は評定衆として幕政の枢機に参画した、北条氏の有力な一族である。なお久時の娘登子(とうし)は、次章で述べる足利尊氏(あしかがたかうじ)夫人である。
その久時も、右の史料がだされた弘安三年にはわずか七歳の少年であったが、すでに河内はじめ五カ国の守護であった。もっとも右の史料の内容はきわめて事務的なもので、各国にいたはずの守護代に機械的に伝達すればすむことではある。しかし、河内・摂津という畿内の要地をはじめ五カ国もの守護を七歳の少年が占めていることは、かなり異常なことといってよい。しかも弘安三年といえば、文永一一年(一二七四)に蒙古が来襲した文永の役のあと、再来襲が必至となっていたころで、事実翌弘安四年に再来襲しており、幕府政治が緊張せねばならなかった時期であってみれば、なおさらである。このことは、諸国の守護をしだいに北条氏一門の手に集中し、北条氏が幕府権力の独占をはかったことの結果なのである。
河内守護は北条久時以後の史料は伝わらないが、摂津では、承久の乱直後長沼宗政(ながぬまむねまさ)が守護になった後、貞応・元仁(一二二二~二五)のころの安達景盛(あだちかげもり)、元仁~寛喜(一二二四~三二)ごろの野本時員(のもとときかず)をへて、弘長三年(一二六三)ごろの北条時茂(ときしげ)、弘安二年ごろの北条氏家督をへて北条久時が守護となり、以後北条氏一門の守護は変わりなかった。紀伊も、北条久時以後、北条氏一門が守護であった。河内も、同様と思われる。
宝治合戦によって三浦氏一族が滅亡させられたことで、前述のように北条氏に比肩する有力御家人はいなくなった。宝治合戦のころ執権であった北条時頼は康元元年(一二五六)に執権を一族で久時の祖父長時(ながとき)に譲って出家したが、弘長三年に没するまで、あたかも院政下の上皇のように、実権をもちつづけた。北条泰時のころに確立された合議政治は、しだいに形骸化し、北条氏の独裁が強まることになった。執権の地位は長時のあと一族の政権をへて文永五年時頼の子時宗(ときむね)がついだ。折から蒙古の使節がたびたび来日して国際関係が緊張しつつあったが、北条時宗はこのいわば外圧をも利用して北条氏独裁に反対する御家人の鎮圧をはかった。さらに、文永九年には、時宗の異母兄で六波羅深題の地位にあった北条時輔(ときすけ)が殺された(二月騒動)ように、北条氏の中では、家督の強化がはかられた。この間、合議制の形骸化はさらに進み、幕府の重要政務も、執権の私邸にあつまる一部評定衆と、御家人ではない北条氏家督の家臣(得宗被官)の寄合で決定されることが多くなり、得宗被官最上位の内管領(うちかんれい)が大きな権勢をもつようになった。
弘安八年、安達泰盛(やすもり)が、宝治合戦同様、一族縁者もろとも滅ぼされた(霜月騒動)。安達泰盛は北条時宗の妻の父で北条氏の外戚ではあったが、三浦氏なきあとでは北条氏以外の最有力御家人で、一般御家人の信望もあつかった。その安達氏が、北条時宗が没し執権が交替したのを機として、内管領平頼綱(よりつな)によって滅ぼされたのである。この結果内管領は幕府政治の実権をにぎるようになり、このころからの幕府政治は、得宗専制(とくそうせんせい)とよばれる。
得宗専制下の幕府政治は、一般御家人の利益の代弁者ではなくなりつつあった。いわんや御家人以外の武士や、次項で述べるような社会構造の変化の中から続々と登場しつつあった新興の武士は、もはや幕府に何の期待も寄せなくなった。
南河内方面での、鎌倉時代中・後期の幕府政治の実際を示す史料はあまりに少ないが、通法寺(現羽曳野市)の寺領に対する、「武士以下甲乙人」や河内国の住人「良寿・行乗以下甲乙人」らの乱妨・狼藉を停止する六波羅深題の下知状や裁許状がある(中世二三・二四)。「武士」とは、御家人以下の武士のこと、また「甲乙人」とは、武士身分に属さない庶民のことであるが、それは幕府からみてのことであって、「甲乙人」もその実、在地領主を目ざす新興の武士であるかもしれない。また通法寺は河内源氏の信仰あつかった寺であるが、その故に特別に武士や甲乙人らの乱妨狼藉を禁じた訳ではなく、在地領主を目ざす新興武士の動きを前に、幕府は、荘園制を守る立場に立っていた。それは御家人に対しても同様であった。御家人は当然不満を強め幕府政治はしだいに危機をむかえることになるが、幕府は、得宗専制を強化することで、これを乗り切ろうとしたのである。こうして鎌倉幕府は、いわばその歴史的使命を終ってゆくことになった。