龍泉寺領の返還要求

65 ~ 67

甘南備の地域に、朝廷造酒司(みきのつかさ)の便補保(べんぽのほ)が設定されていたことは、第一章で述べた。嘉禎四年(一二三八)龍泉寺の所司らは、その便補保は龍泉寺領であり、返付されるよう、藤原氏氏長者(うじのちょうじゃ)に要請した愁状の案(写)がのこされている(大東文書『春日大社文書』五)。史料編には採録していないので、ここでややくわしく紹介しておこう。

 要請の趣旨は、「流記(るき)、公験(くげん)并(なら)びに度々宣旨・院宣等」のとおりに、甘南備上郷にある一六町の造酒司便補保を停止して、元のごとく龍泉寺に返付せられ、当寺の灯油・仏聖ならびに本寺の所役を勤仕したいので、裁許を願いたい、というにあり、龍泉寺は当時藤原氏の氏寺興福寺の末寺であったことから、藤原氏氏長者宛に要請したのである。

 愁状には八通の龍泉寺証文案と、二通の造酒司便補宣旨案が副えられていた。八通の証文案とは、承和一一年(八四四)一一月二六日付紛失状案、同年一二月八日付流記案、寛平六年(八九四)三月五日付国司免判案、天喜五年(一〇五七)四月三日付国司免判案、嘉保三年(一〇九六)五月一二日付官宣旨案、永長二年(一〇九七)一〇月三〇日付官宣旨案、大治四年(一一二九)六月一八日付院宣案、同年一〇月二二日付院宣案である。このうち天喜五年にいたる四通は春日神社(現奈良市)文書中に伝来しており、前章で考察を加えたところである。のこる四通は伝来していない。また造酒司便補の宣旨案二通は、康和五年(一一〇三)六月二四日付、および長寛二年(一一六四)一〇月二九日付であるが、これらも現在に伝わらない。

 愁状の本文は、大要次のように記されている。

 当寺は蘇我馬子草創の霊地で、興福寺往古末寺である。しかるに多年星霜を経る間に寺塔は破壊し住侶は減少し証文も紛失したので、承和一一年紛失状をたて、国司以下郡司・氏人らの証判をとった。寛平六年にいたって国司がはじめて妨げをしたので、承和の紛失状などを示して子細を訴え、国司はかさねて証判を加えた。次に天喜五年また国衙の妨げがあり、かさねて証判をうけた。以上四百余年異論がなかったのに、延久年中(一〇六九~七四)国司平重通がまた妨げをしたので、応徳年中(一〇八四~八七)はじめて官符宣を下され(この官符宣は副進されていない)、もとのように寺領となった。また嘉保三年・永長二年にも国司の妨げによって官宣旨を下された。しかるに康和五年に造酒司便補の宣旨を下されたが、二七年をへて寺家の訴訟によって、大治四年もとのように寺領たるべき由の院宣を下され、国司がなお妨げをするので同年かさねて院宣が下された。その後三五年をへて長寛二年に、また国司の訴訟によって便補保とする宣旨が下されたが、小面積のことなどによって特別の沙汰もなく、今にいたっている。草創以来六百余年、寺領の寺家領掌は前後五百余年、所帯証文は国判三通、宣旨五通(副進の文書目録とはあわない)なのに、造酒司所帯証文は宣旨二通、便補保であったのは九十余年にすぎない。去る寛喜元年(一二二九)大乗院実尊が興福寺寺務の時訴訟したが、今に裁決をうけていない。以前三代の興福寺満寺集会でとりあげられ、便補保の坪付(田地の所在地の明細)を進上するよう命ぜられたという。しかし興福寺も龍泉寺も物怱(ぶっそう)(多事多難の意か)なので、自然と年月を過してきた。どうか度々の宣下状のとおりに、もとのように龍泉寺に返付され、寺塔を造営し本寺興福寺の課役もつとめたい。造酒米については、先規のとおり国司として弁備するよう命じてほしい。

 これが大意である。甘南備上郷にある一六町歩の寺領の返還要求であるが、龍泉寺の草創から説きおこし、平安時代の国司との抗争を文書にしたがって記している。その内容についてはすでに前章で考えたのでくり返さないが、鎌倉時代前期にあって、龍泉寺と寺領の歴史がどうとらえられていたのかが知られて興味ぶかい。甘南備の便補保は、康和五年に設定され、いったん停止されたのち、長寛二年に再設定され、嘉禎四年におよんでいた。しかしその間積極的に龍泉寺が停止要求をしたのは寛喜元年だけであり、しかもその後坪付の注進を命ぜられても龍泉寺側は放置していた。その理由は「物怱」という以外に明示されていないが、源平合戦などの影響が深刻におよんでいたのかもしれない。なお便補保からは、実際に酒造米が上納されていたことも判明する。

 この氏長者宛の要請がどう解決したか、その後の便補保はどうなったのか、関係史料は伝わらないようで、不明というほかない。しかし、興福寺領龍泉寺荘がほとんど史料をのこさないことを考えると、龍泉寺所司らの運動は功を奏さなかったのではあるまいか。

写真22 現在の甘南備 嶽山山腹より東方をのぞむ。