では貨幣経済の発達をうながした生産と流通の発展とは、どのようなものであったろうか。中世の生産の基本は農業であるが、農業生産は、荘園制が確立し、農民の耕作権が、前述のように名主職として安定したことなどによって、着実に発展した。平安時代にはみられた地力回復のための休耕田が荘園制の確立とともになくなり、田畠は連年の耕作が可能になったこと、田では米の裏作に麦、畠でも麦の裏作に大豆を作る二毛作が、鎌倉時代半ばごろからひろく普及しはじめたことなどが、中世農業発展の顕著な成果である。その背景には、重要な肥料源である荒野の農民自身による管理がはじめられて、施肥がひろくおこなわれるようになったこと、牛馬耕が普及しはじめたこと、などもあった。技術上の大きな改良や、大規模な新田開発といった派手さはないが、着実な発展の中で、集約農業がすすみ、一組の夫婦を中心とする家族が経済的にも自立して農業生産を営むことができる条件が、中世を通じてしだいに整備されていったのである。
平安時代の休耕田は、一般に「年荒」「片あらし」などとよばれる。第一章でとりあげた宇礼志荘の所当注文に示される田地目録にも、深役を負担しない田地に「荒」「河成」があるが、「荒」は当分耕作ができない荒廃田であって、「年荒」ではない。鎌倉時代の荘園の田地目録では、このように一般的に「年荒」はみられなくなっている。
二毛作に関しては、文永元年(一二六四)鎌倉幕府が備後(現広島県)・備前(現岡山県)に対して出した有名な命令がある。それは、米の裏作に作る麦に対する課税を禁じ、裏作の収穫は農民の利益とする、という内容だが、この命令は『新編追加』にも収載されていて、備後・備前だけの特別な事例ではなく、諸国に適用される原則であった。宇礼志荘の所当注文にも麦は記されるものの、それは畠の作物であって二毛作の麦ではなく、南河内では二毛作の存在を示す鎌倉時代の史料は見出せないが、紀伊国の紀ノ川流域では、文永ごろからあと、米麦の二毛作を示す史料が高野山文書中に多数伝わっている。南河内方面でも、おそらく鎌倉時代後期には二毛作がはじまっていたであろう。
いっぽう宇礼志荘の公事には、前述のように炭・続松(たいまつ)・綿(きぬわた)・苧(からむし)などがあった。炭や続松は、農閑期に山の木を伐って生産したのであろう。綿や苧は、所当注文が作成された弘長三年(一二六三)ではすでに代銭納となっているが、代銭納前には、屋敷の周辺や畠地に桑を植え養蚕をして綿をとり、苧も自生のものを採集する以外に栽培もおこなわれていたかもしれない。これら公事物は、公事納入のためだけに生産されたのではなく、公事物として納入したのこりは、商品として売却されたはずである。米や麦も、生産の高まりとともに、年貢と自家消費以外の余分が生れるようになると、それを売却することもおこなわれるようになった。
こうして商人が農村にも入りこむようになり、農産物や農村加工品を集荷する市場ができた。市場では、農具や鍋・釜など生産と生活に必要な手工業製品を、農民が入手することができた。市場ははじめ不定期であったが、しだいに定期的にひらかれる定期市へと発展する。たとえば三日市とは、三日、一三日、二三日と三のつく日に毎月三回ひらかれる市(三斎市(さんさいいち))のことである。現河内長野市の三日市は、史料上の初見は天正一四年(一五八六)であるが(「観心寺文書」六三六)当時三日市村とよばれて集落を形成しており、中世にはじまることは確実である。三日市村は高野街道沿いの交通の要地でもあり、石川上流の一中心市場として発達したのではなかろうか。三斎市は鎌倉時代にひろく普及し、鎌倉時代末には月六回ひらかれる六斎市も登場した。
そうした定期市の普及に象徴される流通の発展によって、各地の手工業も発展した。富田林にほど近い河内国丹南(たんなん)(現松原市、美原町、堺市の一部)は古代いらい鋳物の技術を伝えてきたが、平安時代後期いらい丹南の鋳物師は東は陸奥(現青森県)から西は中国・四国・九州にいたる各地の寺に出張して梵鐘を鋳造したが、そのかたわら、鍋釜や農具などの鋳造製品から、衣類、米・麦などの商業にも従事した。また貞応二年(一二二三)のころ、河内国若江郡の蒲田新開(かまたしんかい)(現東大阪市か)、茨田郡高瀬(たかせ)(現守口市)から、摂津国賀嶋(かしま)荘内美六市(現大阪市淀川区)、国衙内市小路(いちこうじ)市(現大阪市北区天満付近)、椋橋(くらはし)荘(現豊中市)、久代(くしろ)庄内今市・豊島市(現池田市・兵庫県川西市付近)、さらに長州(ながす)・大物など現尼崎市付近一帯を商圏にしている檜物(ひもの)(檜(ひのき)や杉の薄板を丸くまげて底をつけた容器など)商人がいた(東洋文庫蔵「弁官補任」紙背文書、『鎌倉遺文』五)。ただし中世では手工業と商業は十分分化せず生産者が製品を売り歩く状態で、その上に市場内でも往復の路上でも、地頭などから不当に課税されるなど種々妨害もうけた。そこでこの檜物師は、蔵人所に文書などを納める書櫃を貢納する代りに、右の市場を巡回して営業する特権の保護をうけていた。同様に丹南の鋳物師も蔵人所に所属していた。中世の商工業者は皇室の供御人、朝廷官衙の寄人、大神社の神人などの身分をもち、一定の奉仕をすることを代償に、営業上の種々の特権や保護をうける状況であった。
流通が発達した、といっても中世ではなおこのような状況であったが、平安時代中期ごろに比べると、格段の違いであり、農業と手工業・商業とは、たがいにからみあいながら、中世を通じて発展した。そしてこのような流通の発展が、本格的な貨幣経済の時代を到来させたのである。
鎌倉時代にも、南北期・室町時代にも、南河内地方には市場名を具体的に知らせてくれる史料は伝わらないが、右の檜物商人の史料にみるような市場のネット・ワークが、鎌倉時代の前期には出現し、しだいに網の目を小さくしつつあったとみてまちがいない。