一五世紀に入ると、富田林市域内でも、作人や作職の存在を示す史料がある。応永一八年(一四一一)正月二六日付、作人僧了見(りょうけん)寄進状がそれである(「金剛寺文書」二四二)。錦部郡足力(こぶら)郷の内北峯字栗坪坂上にある田地半二〇歩(二〇〇歩)を金剛寺御影供料足に寄進したもので、金剛寺にはこの田から毎年定地子五斗五升を負担するが、「ただし此の外所当米ならびに諸役等は、作人沙汰たるべきなり」と注記されている。この田には、金剛寺に負担する以外に所当米などの負担があり、それは作人が直接納入する、という意味である。作人は金剛寺に定地子と、他の所当など(納入先はわからないが)をそれぞれ別々に納入するわけで、それだけ作人の自立性が強いことを示している。
もっともこの寄進状はいささか難解である。本文には、およそ次のように記されている。すなわち、右の田地はもと僧宗浄(そうじょう)の買徳相伝の田地であるが、金剛寺御影供料足に寄進した。ところが以前道法という者が作人であった時は、右の田地二〇〇歩のうちに荒地があるので公方(くぼう)(ふつうは将軍や守護だが、荘園領主をさす場合もある)から三〇歩を減免されていた。今は公方からもとどおり二〇〇歩とされているが、五斗五升の定地子の中から減免分を差し引きしたい、と申したて三〇歩分を少なく納入した。しかし金剛寺は、公方の許可がない限り差し引きすべきではないと命じ、げんに差し引きした作人の作職をとりあげてしまった。そこで作人は未進となっている不足分を弁済し、ふたたび「作職を預けらるべし」と歎願し、本地子五斗五升と定めて、作職を与えられた。ただし臨時税である反銭(たんせん)が課せられた時はその全額を、同じく反米をかけられた時はその三分の二を、右の定地子米のうちから差し引きして作人から別に納める。このほかにもし地子米を未進したなら、何時でも作職を取り放たれて異存はない。
かなり長文のものだが、大要このように記した上で、「当作人僧了見」と署名している。本文の内容は、作人がいったん作職をとりあげられたあと、再び与えられた後の請文となっている。寄進者は、明記されないものの、おそらく僧宗浄で、寄進した権利は地主職と思われる。したがって金剛寺が収得するのは、地主として得る加地子である。
地主は加地子得分を得るだけの権利となったと前に記したが、宗浄から地主職を寄進された金剛寺は、加地子の一部の未進を理由に作人を取り放つことができた。作職は、地主から作人に「預けられる」権利であった。しかし加地子を未進しない限り作職は安定していたはずであり、何よりも他の所当や諸役、反銭や反米を地主とは関係なく負担するのであり、作人はもはや人格的に地主から支配される存在ではなくなっていた。右の史料は、このような作人が富田林の地方にも鎌倉時代の後期いらい一般的に成立していたことを、知らせてくれるに十分である。