悪党の登場

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鎌倉時代後期にはじまる社会構造の変化のいまひとつの方向、すなわち新しい在地領主の成長については、南河内地方では、残念ながらまったく史料はのこされていない。

 ところで在地領主は、源平合戦のころなら、石川源氏のように、源頼朝や幕府のもとに結集しようとした。だが得宗専制を強めた幕府は、もはや新しく成長を目ざす在地領主の利益を守ってくれる権力ではなくなっていたことは、前にも述べた。そこで在地領主らは、地域的に相互に連帯し、実力で行動することが多くなった。集団を組んで荘園に乱入し、農民を責めて年貢米を横取りしたりすることがおこなわれ、力を強めてきた農民ともしばしば対立した。こうした行為は当然地頭が取りしまる対象であるが、地頭の中でもこうした新しい動きに同調する者が多くなった。これに手を焼いた荘園領主は幕府に鎮圧を要請するが、そこで幕府がつけた罪名が、すなわち悪党である。悪党とは一般名詞としては「悪ものの一味」の意味であるが、鎌倉幕府法は、幕府がその一半を支配する国家体制に対する反逆を特に悪党とよんでいた。鎌倉時代には、悪党の語には特定の意味をもって使われていたのである。

 したがって一口に悪党といっても、種々の集団がある。得宗専制を強めた幕府は、これに反抗する御家人を悪党として取り締まろうとし、関東でも九州でも悪党鎮圧が目ざされていた。いっぽう悪僧や悪徳商人が暴力的に港や市場をおそう、悪者集団もあった。しかし、社会構造の変化がすすんだ畿内地方や、伊賀(現三重県)・紀伊・播磨など周辺地域では、新しく成長をめざす在地領主が集団をくんで行動することが多く、これに手をやいた荘園領主が悪党として幕府に告発したため、畿内やその周辺は、いわば悪党の多発地帯となった。これら在地領主の悪党には時代を動かす新しい芽があり、悪党を鎮圧すべき地頭や守護の中にも悪党に同調する者があらわれ、鎌倉幕府は結局畿内やその周辺の悪党を鎮圧することができなかった。

 南河内では史料の関係から顕著な悪党事件は見出せないが、乾元二年(一三〇三)、代官清弘(きよひろ)と如円(にょえん)房が、「近国悪党」を金剛寺に引き入れ、理由なく寺僧らを罪過にしようとしたため、金剛寺の役人以下ことごとく逃隠したといわれる(「金剛寺文書」八一)。事件の細部や、どのような悪党であったかは明らかではないが、南河内でも、悪党は決して珍しくはなく、南河内もまた悪党地帯である畿内や周辺の例外ではなかったことをよく示している。そしてこの悪党を鎮圧できないところに、鎌倉幕府政治の末期症状がよくあらわされていた、といってよい。こうして時代は、元弘の変をむかえることになる。

写真27 金剛寺寺僧請文案 乾元2年3月21日(金剛寺文書)