元弘の変のはじまり

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元弘元年(一三三一)八月、六波羅探題の追求をのがれるためひそかに御所を脱出した後醍醐(ごだいご)天皇は、奈良などを経て、笠置(かさぎ)寺(現京都府相楽郡笠置町)へ入った。南河内地方も中心舞台のひとつとなって戦われる元弘の変は、こうしてはじまることとなった。

 後醍醐天皇は、文保二年(一三一八)、当時としては異例の三一歳の壮年で即位した。折から幕府政治は得宗専制(とくそうせんせい)を強め、行き詰りの様相を濃くしていたことは前章で述べたが、朝廷の内部も分裂を深めていた。後嵯峨(ごさが)法皇の逝去ののち、皇統は大覚寺統と持明院統に分裂し、それぞれの皇統の中にも、分裂があった。皇統の分裂は、基本的には、皇室や公家の経済的基盤である荘園の支配が、新興武士や農民の成長によって動揺をはじめた中で、荘園支配者の間にも分裂がひろがりはじめ、朝廷=公家政権の政治も行き詰りつつあったことの象徴であった。

写真28 後醍醐天皇画像

 宋学などの学識が深く、壮年で即位して実行力もあった後醍醐天皇は、即位とともに、政治改革を強力に推進した。公家一統(天皇親政)政治の実現を目標にかかげ、まず後宇多(ごうだ)上皇の院政を廃止して朝廷内での天皇親政を実現し、ついで幕府打倒を目ざすことになった。幕府打倒は、後醍醐天皇の政治理想実現にとって不可欠であったが、政治理想は別としても後醍醐天皇にとってより切実な緊急を要する課題でもあった。承久の乱後、天皇は幕府の了解のもとに即位することとなったが、皇統分裂の後は、朝廷内部の動きも複雑で、幕府は結局両統が交互に天皇になる両統迭立(てつりつ)とし、後醍醐天皇の次は後二条(ごにじょう)天皇皇子を、その次は持明院統の天皇とすることで和談を提案した。両統の和談は結局ひらかれなかったが、幕府の提案にそって後醍醐天皇の皇太子には後二条天皇皇子がたち、その次も後伏見(ごふしみ)天皇皇子(のちの光厳(こうごん)天皇)ときまっており、幕府が存続するかぎり後醍醐天皇皇子には皇位につく見込みは全くなかったばかりか、幕府の介入によって譲位を迫られる危険もあったのである。

 こうして後醍醐天皇は、幕府打倒を急ぐことになり、側近の日野資朝(ひのすけとも)・日野俊基(としもと)らをひそかに諸国に派遣して志のある武士らと連絡をとるなど、討幕の準備をすすめた。しかし正中元年(一三二四)討幕の計画は六波羅探題に察知された。天皇に味方するため京都にきていた武士は弾圧され、日野資朝・日野俊基も捕えられた。これを正中の変というが、後醍醐天皇は告文(こうもん)(神仏に誓った弁明書)を幕府に呈して弁明し、幕府はこれを了解して日野資朝一人を配流しただけで、天皇には何の処置もとらなかった。承久の乱直後のころとは幕府政治はさま変りしており、幕府はもはや積極的に朝廷に介入する政治力をもたなかったのである。

 正中の変の後、後醍醐天皇による討幕計画はさらに積極的にすすめられた。しかしふたたび幕府の察知するところとなり、元弘元年五月、まず僧文観(もんかん)らが鎌倉幕府滅亡の祈祷をしたとして捕らえられ、七月には、正中の変後釈放されていた日野俊基も捕らえられた。ついで、こんどは天皇自身にも危険がおよぶことは必至の状勢となった。こうして天皇はひそかに御所から逃れたのであったが、『太平記』(巻二)によれば、その翌日六波羅探題は天皇を召換する予定であったという。危機一髪の脱出であった。

図3 天皇系図(南北朝時代前後)