後醍醐天皇がはじめ奈良をめざしたのは、東大寺(現奈良市)や興福寺(現奈良市)のいわゆる僧兵の武力をたよろうとしたからであった。前年元徳二年(一三三〇)に天皇は奈良に行幸して、南都僧兵への働きかけがおこなわれていた。しかし東大寺の有力僧の中に北条氏の縁者がいたことから東大寺の全面的な協力が期待できず、やむなく笠置寺に入ったのであった。
比叡山延暦寺(現京都市左京区・滋賀県大津市)には、後醍醐天皇皇子の尊雲(そんうん)法親王(のちの護良(もりよし)親王)・尊澄(そんちょう)法親王が入っており、さらに強力な働きかけがなされていた。後醍醐天皇が御所を脱出した夜、叡山には天皇の身替りが登山した。六波羅の軍勢が叡山の東麓東坂本(現大津市)へ押しかけたが、天皇の行幸を信じていた叡山の僧兵らは、はじめ六波羅勢に打ち勝った。しかし天皇が身替りであることが暴露されると僧兵の態度は豹変(ひょうへん)し、尊雲法親王らも叡山を下山するほかなかった。
後醍醐天皇が討幕の戦いをおこすにあたってたよりにしようとした有力な軍勢は延暦寺や東大寺・興福寺の僧兵であったが、このように、後醍醐天皇方として十分まとめきらないうちに、元弘の変はおきてしまったのである。それでも後醍醐天皇は笠置寺に身をかくしたのではなく、笠置寺の僧兵と、天然の険をたよりにして挙兵したのであった。東坂本での緒戦の勝利もあって、天皇に味方する近国の武士たちもおいおい笠置寺に集まりはじめた。ただし一〇〇騎、二〇〇騎もひきいるような名のあるほどの武士はなかなか集まってこず、この調子では行在所(あんざいしょ)(仮の皇后)の警固もいかがか、と心配される状況にあった。そんな時、ふとまどろんだ天皇は、次のような夢を見た。
紫宸殿(ししいでん)(皇居内裏の正殿)の庭前と思われる所に、大きな常緑樹がある。南へのびた枝が、とくによく繁っている。その下に、大臣以下多くの役人がひかえている。南へむいた上座に御座の畳をしいているが、誰も坐っていない。天皇は夢心地に、誰のための座席だろうかと思ってたたずんでいると、男の童子二人が忽然(こつぜん)とあらわれ、天皇の前にひざまずき、涙を流しながら、「一天下に、しばらくの間も御身をかくされる所がないが、あの樹のかげの南へむいた座席は天皇の御為に設けた玉座だから、しばらくこれに坐されるように」と言上し、童子は天に上っていった。
このような夢からさめた天皇は、天が告げてくれた夢だと考え、漢字をあてはめて考えてみると、木に南と書くのは楠(くすのき)、そのかげで南にむいて坐れと二人の童子が教えたのは、御所を逃れてきた天皇がふたたび天子の徳を治めて、天下を統率する人物を仕えさせようとするのを、日光菩薩・月光菩薩が教えてくれたのだと判断して、たのもしく思ったことであった。翌朝、笠置寺の僧に、「この辺に楠という武士があるか」と下問があり、僧は「近辺にはいないが、河内国金剛山の西には、楠多門兵衛正成(まさしげ)といって、弓矢取って名を得た者がいる」と答えた。天皇は、すぐに勅使を派遣した。事の子細を聞いた正成は、「弓矢取る身の、これにすぎる面目はない」と考えて、あれこれ思案をめぐらすこともなくいそいで笠置に参上した。天皇は、さっそくに参上した正成をほめ、幕府を倒し天皇親政を実現して新しく天下を草創する方法を下問したのに対して、正成は、天下草創の方法には、武略と智謀の二つがある、武略では北条氏にかなわないが、智謀をもって戦えば、北条氏の武力をくじく方法がある、と答えた。そして、
合戦の習(ならい)にて候へば、一旦(いつたん)の勝負をば、必ずしも御覧ぜらるべからず。正成一人未だ生きて有りと聞こし召され候はば、聖運遂(つい)に開かるべし、と思(おぼ)し食(め)され候へ。
とたのもしげに奏上して、正成は河内に帰っていった。
後醍醐天皇の即位にはじまり、正中の変、元弘の変から、つづく南北朝内乱をえがいた一大戦記文学である『太平記』(巻三)は、楠木正成が、このように天皇の夢想によって笠置に召されたとして、突然に、そして劇的に登場させる。そして笠置から河内に帰った正成は、赤坂城(現千早赤阪村)で挙兵し、智謀をつくして幕府の大軍と戦うことになる。