『増鏡』にみる正成

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正成が後醍醐天皇の夢想によって笠置に召し出されたとするのは、『太平記』の文学的虚構であって、とうてい事実とは考えられない。承久の乱後から、後醍醐天皇までの時代を記した歴史書『増鏡(ますかがみ)』には、次のように記されている(中世二五)。

笠置殿には、大和・河内・伊賀・伊勢などより、つは物(者)ども参りつどふ中に、事のはじめより頼み思(おぼ)されたりし楠の木兵衛正成といふ物あり、心猛くすくよかなる物にて、河内国に、をのが館のあたりをいかめしくしたゝめて、このをはします所(笠置)、もし危からん折は、行幸をもなしきこえんなど、用意しけり。

 正成は事のはじめ、つまり討幕計画のはじまる当初から、後醍醐天皇から頼りにされており、正成は河内の自分の館の辺に城郭を構えて、笠置が危うい折には天皇を迎えようと準備していたというのである。この記述は、おそらく事実に近いものと思われる。『増鏡』は別の箇所で、後醍醐天皇の討幕計画がはじまると、日野賢朝は山伏の真似をして東国を廻り、日野俊基は紀伊国へ湯治に下るといいふらして田舎歩きに熱心であったと記しているから(第一四、春の別れ)、あるいは日野俊基あたりを通して接触があったものであろうか。なお『増鏡』は、つづいて、笠置に入っていた護良親王(尊雲)と尊良親王が、笠置を出て、楠木の館に入っていた、と記している。この記述は、『太平記』とは大きく異なる。

写真30 『増鏡』第15 むら時雨の一部

 楠木正成と後醍醐天皇との関係は、元弘の変以前からはじまり、正成は天皇の討幕計画の熱心な協力者の一人であったとみてよい。しかしそのことは、世間にはまったく知られていなかった。そこで『太平記』の虚構も成り立ち得たのであろう。