こうして楠木正成は、元弘の変のはじまりとともに、いわば歴史の表舞台に、花々しく登場することになった。では楠木正成は、いったいどのような状況の中から、どのような武士として成長してきたのであろうか。この問題は、南河内の地域史のみでなく、日本中世史の展開を考える上にも重要な、興味ぶかい課題である。それだけに早くから研究がおこなわれ、種々の意見が出されているが、いまだ定説をみるにいたっていない。それというのも、出自や経歴など、元弘の変以前の正成に関してはきわめて史料が乏しく、また正成は登場ののちも以下述べてゆくようにごく短期間でその生涯を終るため、正成に関する全史料も少ないからである。
『太平記』は、前述の登場の後は、正成を主人公の一人として大きく取り扱っている。しかしその出自や経歴については、後醍醐天皇の下問に答えた笠置寺の僧成就房(じょうじゅぼう)律師が、河内国金剛山の西にいる楠多門兵衛正成を紹介し、
敏達(びたつ)天皇四代ノ孫、井出左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)公ノ後胤タリト云ヘドモ、民間ニ下テ年久シ。其母若カリシ時、志貴ノ毘沙門(びしやもん)ニ百日詣(もうで)テ、夢想ヲ感ジテ設タル子ニテ候トテ、稚名ヲ多門トハ申候也。
と奏上したことを記すのみである。つまり、金剛山の麓を本拠とするほかは、橘氏の子孫であることと、幼名多門の由来を記すにすぎない。『増鏡』また、前引のように「心猛くすくよかなる者」と正成の性格を記すのみで、出自や経歴には触れていない。
より確実な史料は『太平記』や『増鏡』よりも古文書に求めるべきことはいうまでもないが、元弘の変以前の正成に直接関係する古文書は、ただ一点が知られるのみである。それは、夭折した後醍醐天皇皇子世良(よよし)親王の菩提のために建立された臨川寺(りんせんじ)(現京都市右京区)の寺領目録で、寺領のうち和泉国若松(わかまつ)荘(現堺市)について、次のように記されている(中世二八)。
一 同(和泉)国若松庄 内大臣僧正道祐(どうゆう)、競望申すに依り、去る元徳三年二月十四日不慮に綸旨(りんじ)を下さるるの由、承り及ぶの間、すでに仏陀施入の地、非分御綺(いろい)の間、歎き申すの処、同廿五日、綸旨を寺家に成され了んぬ。而るに悪党楠兵衛尉当所を押妨するの由、風聞の説に依り、彼の跡と称し、当国守護御代官、去年(元弘元年)九月の比(ころ)、年貢以下を収納せしむるの条、不便(ふびん)の次第なり。(以下略)
臨川寺領若松荘は、僧正道祐が強く希望して綸旨(天皇の側近が承って出す天皇の命令)によって道祐に与えられたが、臨川寺が歎願してふたたび綸旨によって返付された。しかるに「悪党楠兵衛尉」が若松荘を押妨したという噂がたち、その押妨の跡地だと称して、元弘元年九月ごろ、和泉国守護代が若松荘の年貢以下を収納してしまった、というのが要旨である。僧正道祐も楠木正成に関係するかもしれないことは後に述べる。ここで、まず注目されるのは、若松荘方面で「悪党楠兵衛尉」の噂があったことである。『太平記』『増鏡』も正成に兵衛の官職名を付しているように、「楠兵衛尉」は正成のことである。その正成が、荘園を押妨(年貢などを押領すること)するような悪党として、和泉方面にまで聞こえていたのである。ただし、悪党楠兵衛尉が実際に若松荘を押妨したかどうかは右の史料では不明で、悪党押妨地を口実に守護の代官が若松荘の年貢以下を収納したのであるが、事実はともかく口実としては利用できるほどに「悪党楠兵衛尉」の噂があったことは事実とみてよかろう。なお守護代官が年貢以下を収納した元弘元年九月ごろは、あたかも元弘の変がはじまった直後にあたる。
当時の悪党とは、たんなる悪者の意味ではなく、政治体制に反抗する者に対して、これを取り締まろうとする鎌倉幕府がつけた罪名であり、畿内やその周辺は悪党の多発地帯であったことは前章で述べた。楠木正成もまた、ひろい意味では、当時のいわゆる悪党か、それに近い存在であったことは、右の史料から、かなり可能性が高い、といってよかろう。