だが当時の悪党には身分階層も職業も、種々の者を含んでいた。悪党ないし悪党に近いというだけでは、実は何ほども楠木正成の実像に近付いたことにならない。最近の研究では、正成は、一所懸命の土地にかかわる所職・所領にしがみつく土着型の在地領主ではなく、商業や流通とひろくかかわり、広範囲に活動する者ではなかったか、と考える見解が、有力になりつつある(永原慶二『内乱と民衆の世紀』(大系日本歴史6)など)。正成を商業にかかわった武士ではないかとする見解は古くからあったが、最近の在地領主と流通との関係の研究の進展をうけて、あらたな正成像が研究者の間で考えられつつあるわけである。しかし正成個人に関しては新史料が発見されたわけではなく、正成像をより明確化するためには、同様な性格をもつとみられる他の武士たちに関する研究の進展をまたねばならない。
新史料といえば、昭和三三年(一九五八)に、能楽観世流の始祖である観阿弥清次(かんなみきよつぐ)の母は「河内国玉櫛(たまぐし)庄橘入道正遠(まさとお)女」と記した「観世系図」が、学界に紹介された(久保文雄「楠木正成と観阿弥」『日本史研究』三八)。正遠は『尊卑文脈』などの系図では正成の父とされている人物であるが(ただし父と断定するには問題がのこる)、その正遠が河内国玉櫛荘(現東大阪市、八尾市)にいたと記されているのである。玉櫛荘は古くからの摂関家領荘園で、水陸交通の要衝である。また正遠・正成と芸能集団との関係も推測され、正成の広域的な活動の有力な史料になるかにみえる。しかしこの「観世系図」は江戸時代後期の写本であり、しかもそもそも系図は確実な史料とはなし得ないのが、歴史学の常識である。なんらかの伝承があってこの系図は作成されたのかもしれないが、内容が興味ぶかいだけに、より確実な史料による補強が待たれる。
いっぽう、さきにあげた臨川寺領目録の若松荘に関する記述の前半にみえる僧正道祐は、実は後醍醐天皇の討幕計画に参画した人物である。また「悪党楠兵衛尉」の表記のうち、兵衛尉の官職名に注目し、正成はすでにこの官職に任命されていたこと、さらに前にあげた文観が天野山金剛寺に関係がふかいことなどから、文観・道祐と同様に、正成は元弘の変はるか以前から後醍醐天皇とふかい連りがあったと推定する見解、楠木氏はもと御家人、さらには得宗被官の可能性もあり、文観を通じて得宗から寝返ったのではないか、との見解も提案されている(上横手雅敬『太平記の世界』、網野善彦「楠木正成の実像」〔『週刊朝日百科日本の歴史』一二〕など)。いずれも決定的な史料をもたないが、早くから知られている史料の再検討とともに、仏像の胎内文書など、なお新たな史料の発見も期待される。
以上、楠木正成の元弘の変にいたるまでの出自・経歴や後醍醐天皇との関係について、学界の現状を簡単に概観した。なお定説をみるにいたっていないが、それは今後の研究の進展に期待することにして、以下、富田林市域とその周辺での活躍を中心に、正成の行動を追うことにしよう。