寄せ手が手段をかえて攻めれば、城中からは工夫をこらして防いだので、寄せ手は手段もなくなり、兵糧攻めにしようとして、遠巻きに陣地を構えることになった。ところで楠木正成は急いで下赤坂城を構えたので、兵糧の用意は十分でなく、二〇日余りの攻防で、もはや兵糧は乏しくなった。そこで正成は、「天下の将兵に先がけて討幕の手柄を最初に立てようと志しているからには、命を惜しむべきではない。しかし事に臨んで恐れ、謀(はかりごと)を好んでなすのは、勇士のすることだ」と、正成が自害したふりをして脱出することを提案し、城衆の賛成を得た。そこで城中に大きな深い穴を掘り、中に敵兵の死骸二、三〇を入れ、その上に薪をつみあげて、雨風の夜を待った。折よくはげしい雨風の夜がきた。正成は、城中に人一人をのこして、「四、五町も落ち延びたと思ったころに火をつけよ」と命じ、正成以下城衆は、まんまと脱出することに成功した。
寄せ手は、下赤坂城に火の手があがるのを見て、勝鬨(かちどき)をあげて大騒ぎとなったが、火が静まったのち、城中の大きな穴の中に多くの死骸があるのを発見した。そして正成は自害した、と信じて疑わず、「敵ナガラモ弓矢取テ尋常ニ(見苦しくなく、りっぱに)死タル者哉(かな)」とほめたたえたことであった。
以上が、『太平記』(巻三)がえがく下赤坂城の攻防戦の大要である。寄せ手の幕府軍はけっして漫然と攻めたわけではなかったが、正成はそれをはるかに上廻る智謀をつくして、撃退したのであった。後に述べる千早城でも、さらにいろいろ工夫をこらして寄せ手を撃退している。その様子は、一見荒唐無稽(こうとうむけい)の、『太平記』作者の作り話のようにみえるが、当時の悪党の合戦には、類似の戦いぶりがみられるし、その戦いぶりや正成の姿は、じつに生き生きと写実的にえがかれている。合戦の細部はともかく、東国武士にはおよそ常識外の戦いぶりを正成がおこなったことは、たしかであろう。
下赤坂城の落城は元弘元年一〇月下旬ごろと推定されるが、寄せ手の東国勢は、正成が城とともに自害したことを信じて疑わなかった。東国武士の常識からすれば、落城とともに城将は自害するものであり、多数の攻撃軍を相手に一カ月余も戦って討死したとしても、それは、『太平記』が記すように、賞讃に値することであった。しかし正成は、死んだふりをして逃げた。みずから城を焼いて逃げることは、後章で述べるように、室町時代中期以降の畿内の合戦では、ふつうにおこなわれるようになる。正成は、鎌倉武士とは常識も価値観もちがう、新しいタイプの武士であったといえるのではなかろうか。