元弘の変は、こうして笠置と下赤坂城があいついで落城するという、後醍醐天皇方の手痛い敗戦をもってはじまった。捕われの後醍醐天皇は、翌正慶元年(元弘二、一三三二)三月、隠岐へ配流された。しかし元弘の変緒戦の敗戦と後醍醐天皇の配流は、討幕の武士の決起をうながす大きなきっかけとなった。尊雲法親王は、幕府軍の追求をあやうく逃れて吉野の奥地に潜行し、還俗して護良と改名、近畿各地の寺社や討幕の志ある武士たちにさかんに令旨(りょうじ)(側近が、親王の意を奉じてだす文書)を発して、決起をうながした。
下赤坂城を脱出した楠木正成が落ちのびたのもおそらく吉野か高野山の奥地であり、護良親王とひそかに連絡をとっていたものと思われる。そして元弘二年(正慶元)一一月ごろ、護良親王が吉野金峰山寺で挙兵したのに呼応して、正成も再挙した。まず六波羅探題に出仕している隅田(すだ)氏の本拠紀伊隅田荘(現和歌山県橋本市)を襲い(正慶元年一二月一九日付、六波羅感状写、隅田家文書、『和歌山県史』中世一)、一一月半ばには、楠木正成が復活したことが京都にも知れわたって恐怖心をよびおこし、皇居諸門の警固の武士も鎧(よろい)・直垂(ひたたれ)を着用するようになった(一一月一五日付花園上皇宸翰、『三朝宸翰』)。そして一二月には、さきに自害のふりをして脱出した下赤坂城を奪回した。
『太平記』(巻六)によれば、下赤坂城には、紀伊の湯浅を本拠とする有名な御家人湯浅党の一人である湯浅孫六入道定仏(じょうぶつ)(宗藤(むねふじ))が入っていた。湯浅定仏は、正成が死んだ後の河内には何事もなかろうと安心していたところへ、正成は五百余騎をひきいて急に押し寄せてはげしく戦った。城中の兵糧が乏しくなったので、湯浅定仏は所領の阿弖川(あてがわ)荘(『太平記』は「阿瀬河」と記す。現和歌山県有田郡清水町付近)から人夫五、六〇〇人に兵糧を運ばせ、夜中に城へ入れようとした。正成はこのことを知って、道の要所に待ち伏せてすべて奪いとり、兵糧の俵に物具をつめ、正成方の軍兵を二、三〇〇人、湯浅方の人夫のようなふりをして城へむかわせ、楠木方の軍勢がこれを追いかける真似をした。湯浅定仏はこの様子を見て、兵糧運搬の人夫が楠木勢に追われていると心得、城中より打って出て、人夫をむかえ入れた。こうしてまんまと城中へ入った楠木勢は、俵から物具をとり出し、鬨の声をあげ、同時に城外からも木戸を破り塀をのりこえてなだれこんだので、湯浅定仏も降人となるほかなかった。楠木正成は湯浅勢を合わせて七百余騎になり、河内・和泉の両国に威風をなびかせることになった。
智謀の策略によって楠木正成が下赤坂城奪回に成功したことを、『太平記』は大要このように記している(中世三〇)。湯浅定仏以下湯浅党の面々が下赤坂城に入っていたことは、『楠木合戦注文』によって確認される。この史料は、尊経閣所蔵のある文書の紙背に記された記録であるが、前半は楠木正成を攻撃する幕府側の者の注進状の写で『楠木合戦注文』とよばれ、後半は正慶二年(元弘三年、一三三三)三月、四月の九州博多の合戦の様子を日記風に記し『博多日記』とよばれる。ともに当時博多にいた僧良覚(りょうかく)が記したもので、史料的価値が高く元弘三年の楠木正成の合戦については基本史料の一である。『楠木合戦注文』には、「楠木の為に取り籠めらるる湯浅党の交名」として、阿矢(弖の誤字か)川(湯浅)孫六入道定仏のほかに、安田(やすだ)次郎兵衛尉重顕(しげあき)、藤並(ふじなみ)彦五郎入道、石垣(いしがき)左近将監宗有(むねあり)、生池(地)(おんじ)蔵人師澄(もろずみ)、宮原(みやばら)孫三郎、湯浅彦次郎時弐(ときじ)、糸賀野(いとがの)孫五郎の名をあげている(中世三〇)。このうち高野山北麓の御家人生地氏以外は、すべて紀伊有田郡の御家人である。幕府(六波羅探題)は、下赤坂城を河内方面の重要拠点と考え、紀伊の御家人を配置したのであろう。しかし復活した楠木正成によってやすやすと奪回されたのであった。なお奪回の日付を『太平記』は元弘二年四月三日とするが、これは誤りで、『楠木合戦注文』は正慶元年(元弘二)一二月としており、この方が正しいと思われる。