『楠木合戦注文』によれば、こえて翌正慶二年(元弘三、一三三三)一月五日、楠木正成は甲斐(かい)荘安満見(あまみ)(現河内長野市天見)で紀伊国御家人井上入道・上入道・山井五郎らと戦って五十余人を討死させた。下赤坂城が奪回されたのをみて、紀伊から攻めてきたのをむかえ撃ったのであろう。ついで一月一四日、河内国丹南のあたりで戦い、河内守護代、丹下(たんげ)・池尻(いけじり)氏、花田地頭俣野(またの)氏、和泉国守護、田代(たしろ)・品河(しながわ)・成田(なりた)氏らの軍を破り、一五日には、陶器(とうき)左衛門尉・中田の地頭・橘上地頭代らの軍を破った。
丹南は、鎌倉時代後期に守護所がおかれていた所と考えられる。正成の復活と河内・和泉の幕府方軍勢の敗退を見て、六波羅探題は、代官竹井(たけい)・有賀(ありが)氏以下軍勢を南下させ、六波羅軍は天王寺に城郭を構えた。そこで正成は、一月一九日に天王寺を攻撃、巳の時(午前一〇時ごろ)から戌亥(いぬい)の時(午後八時~一〇時)まで終日はげしい合戦をして天王寺の構(かまえ)を追い落し、渡辺(現大阪市京橋付近)で米を少々押し取った。そして正成は一月二二日葛城に引きあげた。
天王寺の構を攻めた正成の軍勢は、大将軍四条少将隆貞(たかさだ)以下、楠木一族、同舎弟七郎、石河判官代跡代百余人、判官代五郎、同松山ならびに子息等、平野(ひらの)但馬前司子息四人、平石(ひらいし)、山城五郎、切判官代、春日地、八田、村上、渡辺孫六、河野湯浅党一人、その勢五百余騎、その外雑兵数を知らず、と『楠木合戦注文』は記している。このうち四条降貞は、くわしい伝記は不明であるが、早くから後醍醐天皇の討幕計画に参画し、笠置落城後姿をくらませた公家四条隆資(たかすけ)の子で、元弘三年には護良親王の側近として令旨に署名している。各地の武士を統率する名目上の大将として、正成が推戴したのかもしれない。楠木一族と舎弟七郎につづいて記されている人々は、いずれも実名も経歴も不明であるが、石河判官代跡は、前章で述べた石川源氏の系譜をひく者と思われ、百余人もの武士がいたことも注目される。平野但馬前司は、摂津国平野荘(現大阪市平野区)に本拠をおく武士であろうか。同様に平石は河内国平石(現河南町)、渡辺孫六は渡辺付近に本拠をおく武士であろう。再挙した楠木正成は、こうして楠木一族を中心とする南河内の武士ばかりでなく、摂津の一部までを含めた大きな軍事集団になっていたことが判明する。
『楠木合戦注文』は、つづいて、一月二三日に京都から関東の名族宇都宮(うつのみや)氏の軍勢が南下して天王寺にいた楠木軍を攻め、宇都宮氏家子(いえのこ)の一二人が生け捕りにされたこと、二月二日宇都宮勢は帰洛し、代々木判官・伊賀常陸守がなお天王寺にとどまっていることを記している。正成が天王寺に「出張」して六波羅勢、ついで宇都宮治部大輔(公綱(きみつな))と戦ったことは、合戦の細部と月日は異なるが、『太平記』(巻六)にもくわしく記されている。一方『増鏡』には、「正成は、聖徳太子の御墓の前を軍のそのにして、出であひ駆けひき、寄せつ返しつ、潮の満ち引くごとく」に戦ったと記している(中世三〇)。聖徳太子の墓前とは、上ノ太子叡福寺(現太子町)付近であろう。こうして石川下流から摂津南部まで出撃して六波羅勢と戦っている間に、正成は金剛山麓で城郭の築造を急いでいたものと思われる。