上赤坂城と千早城

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再挙した楠木正成が築いた城には、上赤坂城と千早城の二つがあった。上赤坂城は下赤坂城より千早川を約二キロメートルさかのぼった左側、金剛山の西側尾根の突端部にある。標高約三五〇メートル、南方は尾根伝いに金剛山に通じるが、他の三方は比高約一〇〇メートルの谷に面した要害の地で、奥行約八〇メートル、幅約一〇メートルの本丸跡をはじめ、一段下がった所にある曲輪跡や堀切などの遺構が今にのこされている。『太平記』(巻六)は、上赤坂城の様子を、「此城三方ハ岸高シテ、屏風(びょうぶ)ヲ立タルガ如シ。南ノ方許(ばかり)コソ平地ニ継(つづ)ヒテ、堀ヲ広ク深ク掘切テ、岸ノ額(ひたい)ニ屏ヲ塗(ぬ)リ、其上ニ櫓(やぐら)ヲ掻双(かきなら)ベタレバ、如何ナル大力早態(はやわざ)ナリトモ、輒(たやす)ク可責(せむ)様ゾナキ」と記している(中世三二)。

 『楠木合戦注文』は、上赤坂城を「楠木本城」と記すのに対し、千早城(当時の史料には、千剣破、茅葉屋、千岩屋、千葉也などとも表記されている)は「爪(つめ)城」と記している(中世三二)。爪城は詰城で、本城が落城して後も、最後の拠点とたのむ城のことである。それにふさわしく千早城は上赤坂城よりさらに約四・五キロメートル千早川を東南方向へさかのぼった金剛山中腹にあり、標高約六六〇メートル、東側は金剛山につづくものの他の三方は比高約二五〇メートルの急斜面で、現在の遺跡への登山道には、約七〇〇段もの石段が設けられている。城域は周囲四キロメートルにたりない小城であるが、西北から東南へ、四の丸・三の丸・二の丸・本丸といわれる遺構が、奥行き約三〇〇メートル、比高約三〇メートルの間に一直線にならんでいる。『太平記』は、遺跡の状況とはやや異なるが、「此城東西ハ谷深ク切テ人ノ上ルベキ様モナシ。南北ハ金剛山ニツヾキテ而モ峯絶タリ。サレドモ高サ二町許ニテ、廻リ一里ニ足ヌ小域」と記している(中世三三)。

写真35 上赤坂城跡 千早赤阪村

 楠木正成が再挙したころ、護良親王も吉野で挙兵していた。鎌倉幕府は、楠木正成と護良親王を攻撃するため、ふたたび大軍を動員した。『楠木合戦注文』によれば、遠江弾正小弼(阿蘇治時(あそはるとき))を総大将、長崎高貞(ながさきたかさだ)を軍奉行(いくさぶぎょう)とする河内道、陸奥右馬助(大仏高直(おさらぎたかなお))を総大将、工藤高景(くどうたかかげ)を軍奉行とする大和道、および名越(なごえ)遠江入道を総大将、安東円光(あんとうえんこう)を軍奉行とする紀伊手の三方面からの攻撃軍が編成された。総大将はいずれも北条氏の一族、軍奉行は得宗被官(とくそうひかん)(得宗家の家臣)である。そして河内道には河内はじめ和泉・摂津・美濃(現岐阜県)・加賀(現石川県)・丹波(現京都府・兵庫県)・淡路(現兵庫県)の諸国の御家人が編成されたほか、大和道・紀伊手にも六波羅探題管轄下の西国諸国の御家人がそれぞれ編成され、さらに大番役のため京都にいた関東の御家人も、紀伊手・大和道に編成された、という。『太平記』も、これらの人々はじめ主だった大名一三二人、都合三〇万七五〇〇余騎の「関東大勢」が上洛、元弘三年(正慶二、一三三三)正月晦日から、さらに諸国の軍勢を合わせた八〇万騎を三手に分け、阿曽治時を大将とする八万余騎は上赤坂城へ、陸奥右馬助は搦(からめ)手の大将として二〇万騎で金剛山(千早城)を攻めることになった、と記している。

 これら幕府方の軍勢が守るべき軍法などに関する五カ条の事書(ことがき)が定められたことも、『楠木合戦注文』は伝えている。第一条は、三方が「一揆」して、すなわち力を一に合せて攻撃せよと命じ、先発を争うのは不忠だとする。第二条は、一人が傷つき、あるいは命をおとしても、引き退かず攻撃せよと命じ、忠節にはげんだ者にはその手柄にしたがって恩賞を与える、と約束する。第三条は、押し買い(無理に物を買いとること)、押し捕りの狼藉を厳禁し、三方の軍奉行にそれぞれ狼藉制止を命じ、兵糧は六波羅探題から支給する、としている。第四条は、護良親王について、以前に生け捕りを指令したが、今後は誅罰(ちゅうばつ)せよと命じ、誅罰した者には、その身分を問わず近江国麻生荘を与えると約束する。第五条は楠木正成について、誅戮(ちゅうりく)した者には、同じく丹後国船井荘を与えると約束する。幕府方は、このように軍法を定めた上で楠木正成と護良親王の殺害を期したのであったが、事書の中で、忠節に対して恩賞を約束し、楠木正成と護良親王の首級には恩賞として与えられる具体的な荘名まであげている。鎌倉時代の主従関係の一般的な考え方として、合戦で忠節をつくすなど奉公に対しては、主君は所領を宛行うなど御恩を与えるべきであった。もし奉公に対して恩賞がなければ、請求することもできた。前述した下赤坂城について和田助康が提出した目安は、合戦に参加し証人もあるにかかわらず恩賞が与えられなかったため、これを請求したものである。鎌倉時代の主従関係は双務契約である、といってよく、武士たちが合戦に参加するのは、恩賞を期待してのことであった。したがって第四、五条で恩賞を約束したのは、その原則を再確認したもので、この事書が特別なのではなく、後醍醐天皇方も恩賞を約束した事書をだしていることは後に述べる。しかし恩賞として与えられる具体的な荘園名までを明記した例はこれまでになく、幕府の狼狽(ろうばい)ぶりがうかがわれる。