上赤坂城の戦い

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『楠木合戦注文』によれば、二月二二日河内道の総大将阿蘇治時は、上赤坂城の攻撃を指令し、相模国の本間(ほんま)一族、備中国の須山(すやま)の人々、武蔵国の猪俣(いのまた)の人々らが、さっそく赤坂城に押寄せた。中でも本間又太郎と弟与三は先陣となり、一、二、三の木戸を打ち破って四の木戸口近くに押寄せて太刀をもって斬りこもうとしたが、兄弟とも矢にあたって引き退いた。その後本間九郎父子はじめ一族四人が討死、一門七十余人が負傷、若党・下部百人余人が討たれた。須山の人々は一族八十余人中六一人が負傷し、若党四人が討死、猪俣の人々も一一人討死、負傷六十余人、その中で人見(ひとみ)六郎入道と同甥の主従一四人が同じ所で討たれた。ほかに結城(ゆうき)白河(現福島県)の出雲前司の部下も、討死七十余人、負傷二百余人におよんだという(中世三二)。幕府の中には、犠牲をかえりみず果敢に攻撃する武士も多かったのである。

 『楠木合戦注文』のこの記事は、正慶二年(一三三三)閏二月二日付の注進状の写として記されている。注進状の宛先は記されていないが、本間一族らの活躍ぶりは、諸国に伝えられて有名だったのであろう。『太平記』は、一族の集団としての行動ではなく、人見四郎入道恩阿(おんあ)・本間九郎資貞(すけさだ)の二人が鎌倉武士の大きな名誉とされていた先懸けを争い、ともに上赤坂城に突入して討死し、本間資貞の子資忠(すけただ)も父のあとを追って単騎突入して討死する哀話をのせているが、本間一族らの有名な活躍を背景に、説話化されたものであろう。

 ところで上赤坂城は、意外なことから落城した。『太平記』(巻六)はつづいて、次のように記している。阿蘇治時を総大将とする八万余騎が一〇日ほども攻撃を加えたが、手負(ておい)(負傷)・死人が多数出るばかりで攻めおとすことができない。ところが攻撃軍は、播磨国(現兵庫県)吉川(よかわ)八郎の提案によって、尾根筋に埋めてある水路の樋を切断することに成功した。水の手を断たれて困りきった城将平野将監入道は、幕府軍に抵抗した罪をゆるされることを条件に降伏を申し出、主従二八二人が降伏した。しかし降人は六波羅探題におくられると、一人のこらず首をはねられてしまった(中世三二)。

写真36 上赤坂城跡遠望 千早赤阪村

 平野将監入道が上赤坂城にいて降伏したことは、『楠木合戦注文』にも記されており、平野将監入道の降伏によって落城したことは、事実とみてよい。ただし降伏の人数は三十余人、うち八人は逐電し、あるいは生け捕られ、あるいは自害したという。また楠木正成の弟も上赤坂城にいたという。正成の弟は、落城後は、千早城に合流したのであろう(中世三二)。

 平野将監入道は、さきの天王寺の合戦に楠木正成軍に参加した平野但馬前司の同族であろう。『太平記』によれば、平野将監入道は、正成が再挙して和泉・河内を制圧した時に、いったんの難を逃れるために心ならずも正成に属したもので、幕府軍に抵抗するのは本意ではない、と降伏を申し出たという。平野氏は楠木正成とは関係が薄く、また正成に同調する強い信念もなかったのであろう。にわかに編成された正成軍の弱い部分が、幕府軍の猛攻を前に、こうして脱落したのであった。