『楠木合戦注文』によれば、千早城・上赤坂城の攻撃軍は、河内から攻めるのが大手軍、大和路から攻めるのが搦手(からめて)軍とされている。そして搦手軍の千早城攻撃は、大手軍が上赤坂城攻撃中の、正慶二年(元弘三年、一三三三)二月二七日からはじまった。ただし後述するように大手軍に属していたとみられる熊谷直経(くまがいなおつね)は、二月二五日に千早城で戦っているから、大手軍は上赤坂城攻撃と平行して、搦手軍よりも早く千早城攻撃を開始していたようである。『楠木合戦注文』によれば、斎藤新兵衛入道子息兵衛五郎が、北条一族の佐介(さすけ)越前守の軍に属してこの日千早城を攻めたが、山上から投げおろされた石礫にあたって負傷、翌二八日大手軍に達した着到状(ちゃくとうじょう)(催促に応じて到着したことを申告する文書)では、手負死人千八百余人に達したという。搦手軍による千早城攻撃の緒戦に、はげしい攻防戦がくりひろげられたことが判明する。なお『楠木合戦注文』は、このころまでに楠木正成が構えた城がみな落され、のこるは三、四カ所であるという。上・下赤坂城、千早城のほかに、金剛山麓にはなおいくつかの城があったのかもしれない。また上赤坂城の落城は、閏二月一日に風聞したという(中世三二)。上赤坂城の落城は、千早城攻撃開始の直後であろう。
閏二月一日には、はげしい攻防戦をくりひろげていた吉野も落城し、村上義光(むらかみよしてる)が身替りとなって自刃する間に、護良親王はかろうじて十津川方面へ脱出した。こうして幕府軍のすべてが千早城攻撃にむかうこととなった。千早城の攻防戦は『太平記』にくわしくえがかれ、『太平記』前半の大きな山場となっている(中世三三)。以下『太平記』がえがく千早城の戦いを紹介しよう。
『太平記』(巻七)「千剣破(ちはや)軍事」は、
千剣破ノ寄手ハ、前ノ勢八十万騎ニ、又赤坂ノ勢・吉野ノ勢馳(はせ)加テ、百万騎ニ余リケレバ、城ノ四方二、三里ガ間ハ、見物相撲ノ場ノ如ク打囲デ、尺寸ノ地ヲモ余サズ充満(みちたり)タリ。(中略)此勢ニモ恐ズシテ、纔(わずか)ニ千人ニ足ヌ小勢ニテ、誰ヲ憑(たの)ミ何ヲ待共(まつとも)ナキニ、城中ニコラヘテ防ギ戦ケル楠ガ心ノ程コソ不敵ナレ。
という状況描写からはじまる。
寄せ手は、はじめ、一両日は、周囲一里にもたりぬ小城と見侮(あな)どり、向い陣(攻撃にでるために備えた陣地)もしかず、何の準備もなしに、我さきにと城の木戸口の辺まで楯をかざしてかけ上った。城中は少しもさわがず静まりかえっていたが、ころあい見はからって高櫓(たかやぐら)の上から大石を投げ懸け投げ懸けして楯板をうちくだいたところへさんざんに射かけたので、四方の坂からころがり落ち、落ちかさなって死傷する者は一日で五、六〇〇〇人にもなった。そこで軍奉行の長崎高貞は、大将の許可なく合戦することを禁じ、軍勢はそれぞれ向い陣を構えることになった。