さまざまな攻防

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ここに上赤坂城を攻めた大将が、上赤坂城同様に千早城の水の手をとめることを提案、千早城はその構造から麓の谷川の水を汲んでいるだろうと考え、攻撃軍は協議して、名越越前守を大将に、三千余騎で谷川の辺に陣取らせた。ところが正成は、ちゃんと用水の準備をしていた。五カ所の秘水のほか、大きな木で小船を二、三〇〇つくって水をたたえ、役所(将兵の詰所)の屋根の雨水も小舟に入るように樋(とい)をかけ、小舟の底には赤土をはって水質を損じないようにするなど工夫をこらしていたので、上赤坂城とは違って水に困ることはなかった。谷川の辺に布陣した名越の軍勢は、いっこうに城中から水汲みに下りてこないのをみてつい油断をはじめた。正成はこの様子を見すまして、ある夜闇にまぎれて二、三〇〇人をひそかに下らせ、夜明けとともに名越陣に斬りかかったので、名越はたまらず本陣に逃げかえった。攻め手数万の軍勢はこれを見て、渡り合おうとひしめいたが、谷をへだてているのですぐには行きつけない。この間に楠木勢は、放置されていた敵の旗や幕をひろって、ゆうゆうと城に引きあげた。

 翌日、楠木勢はその旗と幕とを敵に見えるようにならべて、「これは皆名越殿から賜ったものだが、紋がついているからこちらには不用、とりにこい」といって、声をそろえてどっと笑った。名越氏の不覚は天下にひびき渡った。そこで名越一家の者どもは、恥をすすがんものと必死になって攻め上った。ところが城中にはいつでも落せるように大木を横たえてあり、これを落しかけたので攻め手は将棋倒しとなって四、五〇〇人が圧死し、これを避けようとさわぐ包囲軍へ城中からさんざんに射かけたので、五千余人が討たれた。「あわれ恥の上ぬりだ」との噂はやまず、千早城を侮りがたく思った寄せ手は、今やすすんで攻めようとする者もなくなった。

 そこで軍奉行の長崎高貞は、「この城を武力で攻めるのは無理だ、包囲して食糧攻めにせよ」と命じ、合戦を止めた。包囲軍は退屈し、京都から連歌師をよんで連歌会を興行し、あるいは碁・双六・闘茶などにあけくれた。これらはいずれも賭(かけ)をともなう、当時大流行した遊びである。城中の兵はこれを見下してやる方ない思いをしていたが、少しして正成は、「いでさらば、また寄せ手をたばかって、居眠りをさまそう」といって、新しい工夫をした。等身大の藁人形二、三〇に甲胄をきせ武器をもたせて、夜中に城の麓に並べ、その後によりすぐりの兵五〇〇を配し、夜明けとともにどっと鬨の声をあげたのである。寄せ手は我れ先にと攻め寄せてきた。楠木勢は矢軍を少々しながら人形をのこして城中へひきあげたが、寄せ手は人形を実の兵と心得て、これを討たんものと大勢集まってきた。そこへまたまた大石四、五〇を一度に落したので、三〇〇人が殺され、五百余人が半死半生の目にあった。人形を討とうとして殺されても手柄にならず、人形を危ぶんで進み得なかった者は臆病者で、ともかくも万人の物笑いになった。

 こののちは寄せ手はすっかり合戦を止めた。諸大将の陣々には江口・神崎から遊女も呼びよせられ、さまざまな遊びにふけったが、紀伊手の総大将名越遠江入道と甥の兵庫助が、双六から喧嘩になり、突き違えて二人とも死に、両人の郎従どもも斬りあい、たちまち二百余人が死んだ。これを見た城中は、「後醍醐天皇に敵対する天罰によって自滅する有様を見よ」と笑ったことであった。

 三月に入って関東から急使がきて、攻撃を督促した。そこで大将たちが協議して、京都から番匠(ばんじょう)(大工)を召しよせて、幅一丈五尺(約四・五メートル)、長さ二〇丈(約六〇メートル)もの大きな梯(かけはし)をつくり、これを谷に渡しかけて攻撃した。ところが城中からは火のついた松明(たいまつ)を投げ下し、水弾(みずはじき)(一種の水鉄砲)で油をそそぎかけたので、梯はたちまち炎上し、数千の兵は猛火の梯もろとも谷底へ転落した。

 そうこうしている間に、護良親王の命をうけた大和の野伏(のぶせり)(地侍)らが各地に潜伏し、包囲軍の補給路を遮断した。このため包囲軍の食糧が尽き、人馬ともに疲れはてて一〇〇騎、二〇〇騎と脱落してゆくのを、案内を知った野伏が要所要所に待ちうけて攻撃したので、日々討たれる者は多数にのぼった。たまたま命の助かった者も、物具をすて、衣類をはぎとられて、裸同然で諸国へ逃げ散った。前代未聞の恥辱で、日本の武士どもの、先祖伝来の物具や太刀は、みなこの時になくなった。こうしてはじめ八〇万騎といわれた寄せ手も、わずかに一〇万騎ほどになってしまった。

写真38 千早城の戦い (『太平記絵詞』上巻)