鎌倉幕府の滅亡

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楠木正成が千早城で幕府の大軍と戦っている間に、後醍醐天皇は元弘三年(正慶二年、一三三三)閏二月下旬配所の隠岐を脱出することに成功して、伯耆国(現鳥取県)船上山(せんじょうせん)に拠り、公然と各地の武士に決起をうながした。いっぽう吉野落城後の護良親王もひきつづきさかんに令旨を発して千早城の支援と討幕の挙兵をうながした。護良親王の令旨をうけて播磨の赤松円心(あかまつえんしん)が挙兵し、三月半ばには摂津で六波羅探題軍を破り、京都にせまった。

 千早城攻撃中の和田助家にも、実は四月三日に護良親王の令旨がとどいていた。助家自身は病気と称して令旨に応じなかったが、子息助康に数人の軍勢をつけて、京都西南郊外赤井河原の合戦に参加させていた(元弘元年五月日付、和田助家軍忠状、和田文書)。和田助康は、この日京都を攻めた千種忠顕(ちぐさただあき)の軍に参加したものと思われる。和田助家は、前述のように四月二〇日付で幕府方として軍忠状を書いている。千早城攻撃に参加しながら、幕府の勝利に疑問をもち(幕府が敗れれば幕府方としての軍忠は無意味になる)、後醍醐天皇方にもひそかに通じていた。どちらが勝利しても一家一族が存続し恩賞にありつけるよう、いわば保険をかけたのである。このやり方は畿内の多くの御家人らが、元弘の変をはじめ、後述する内乱の過程でとった方法である。幕府の衰運は、もはや誰の目にも明らかになりつつあった。

 元弘三年四月日付で、官軍(後醍醐天皇方)が守るべき、狼藉禁止以下の軍法が定められ、五月三日付でも入洛して六波羅探題を攻撃するにさいしての軍法が定められている。さらに、制定の日付は明らかではないが、軍忠をあげた者には本領安堵のほか、新たな恩賞を与えることを約束した「勲功の賞の事」以下三カ条の軍法が、後醍醐天皇の勅制として定められている(以上『光明寺残篇』)。これも四月ごろであろう。和田助家がひそかに護良親王令旨に応じたのももとより恩賞が目当てであったはずであるが、四月には、多くの御家人をもまきこんで、官軍はひろく形勢されつつあった。千早城の包囲はなお続いていたが、もはや孤立した戦いではなくなった。

写真40 大塔宮護良親王令旨 元弘3年4月28日(和田文書)

 そんな中を、足利高氏(のちの尊氏)が、後醍醐天皇を討つべく上洛してきた。反北条氏の気運が強まる中で、幕府首脳は源氏の末流である高氏の動きを警戒していた。千早城攻めの大将は、前述のようにいずれも北条氏一族であった。しかし北条一族中には、もはや西国に出陣する有力武将はなくなっていた。そこで高氏の出陣となったのであるが、高氏には、北条氏を討つべき後醍醐天皇綸旨が、ひそかに伝えられていた。尊氏は五月二日付で綸旨に応じる旨返答し、丹波国篠村八幡(現京都府亀岡市)まですすんだところで、六波羅探題を討つことを宣言した。そして五月七日、単独では六波羅探題を攻略できなかった赤松円心・千種忠顕の軍をあわせ、ついに六波羅探題を攻め落とした。最後の探題の一人北条仲時は、近江国(現滋賀県)番場まで逃れたものの、蓮華寺(れんげじ)で自刃した。

 いっぽう、足利氏と同じく源氏の末流である新田義貞(にったよしさだ)は、元弘の変の時は大番役として京都におり、千早城攻撃軍にも編成されていた。しかし病気と称して上野国新田荘(現群馬県新田郡新田町付近)に帰り、討幕の軍を準備した。そして五月二一日鎌倉を攻撃、翌日最後の得宗北条高時(たかとき)が自刃した。鎌倉幕府は、ここに滅亡したのである。なお、近江蓮華寺では四三二人が、鎌倉では八百余人が、殉死した。得宗専制下の鎌倉幕府はすでに歴史的使命を終っていたとはいえ、幕府に殉じようとする武士もなお多かったのである。