六波羅探題滅亡の知らせをうけると、後醍醐天皇はただちに伯耆を出発して帰京の途についた。元弘三年(一三三六)六月二日、帰京途中の天皇が兵庫を出発しようとしているとき、楠木正成は七千余騎をひきつれて参向した。天皇は正成を側近く召し、その「忠戦」をあつく賞したのに対して、正成は、「天皇の聖徳がなければ、わずかな謀(はかりごと)だけでどうして強敵の囲みを脱出できようか」と謙遜した。それから正成は帰京の行列の前駆をつとめた、と『太平記』(巻一一)は伝える。千早城の合戦はいつまでつづいたのか、確実な史料は伝わらないが、五月七日の六波羅探題滅亡とあい前後して、千早城包囲の幕府軍も最後的に解体したはずである。なお新田義貞が鎌倉を攻略した知らせは、後醍醐天皇が兵庫にいる時に伝えられたとも(『太平記』巻一一)、帰京の列が西宮まできたときに伝えられたとも(『神皇正統記』)いわれる。
こうして後醍醐天皇は六月五日に京都の御所(二条富小路殿)入って皇位に復帰し、天皇による新しい政治がおこなわれることになった。翌年年号が建武と改元されたので、後醍醐天皇による新しい政治は、ふつう建武新政とよばれる。新政発足一〇日後の元弘三年六月一五日に発せられた宣旨(せんじ)(天皇の命を伝える文書の一種)の写が、金剛寺に伝えられているが、そこには次のように記されている(「金剛寺文書」一五四)。
近日凶悪(きようあく)の輩縡(ともがらこと)を兵革に寄せて濫妨し、民庶多く愁う。爰(ここ)に軍旅已に平らぎ、聖化普(あまね)く及ぶ。今より以後は、綸旨を帯びざれば、自由の妨(さまたげ)を致すなかれ。もし法令に違反する族(やから)有らば、国司及び守護人等、勅断を待たずその身を召し捕え、よろしく奏聞を経べし。
近日兵革(戦争)にことよせて濫妨をはたらく凶悪の輩があり、庶民の愁となっているが、すでに平和が回復し、天皇親政がおこなわれるようになった、今後は綸旨をうけないで、勝手な行動をしてはならない、もし法令に違反する者があれば、国司および守護は身柄を召し捕え、天皇に奏聞せよ、というのが大意である。ここに新政の基本方針が端的に示されている。庶民の愁となる凶悪の輩の取り締まりも、綸旨をもっておこなおうとする綸旨万能主義である。この宣旨の写が金剛寺に伝わることは、南河内の地域にも、綸旨万能主義の徹底をはかられたことを示している。公家一統(天皇親政)の実現を理想にかかげて討幕に成功した後醍醐天皇による新しい政治は、武士や荘園領主の所領安堵や恩賞から、庶民にかかわる治安の維持まで、すべて天皇の勅断により、綸旨によって伝えられる極端な天皇中心の政治として発足することになった。この時期の綸旨としては、元弘三年六月二九日付で、観心寺に「観心寺地頭職」を寄附することを伝えた綸旨(「観心寺文書」一八)、および同年一〇月二六日付で、「大師(空海)作」の不動尊像を渡すことを伝えた綸旨(「同」一九)が伝わっている。楠木正成は、滝覚(ろうかく)房にあてて、この綸旨を観心寺に伝達したことを伝えるとともに、一〇月二八日に京都で渡されるので、いっしょに上洛したい、と申し送っている(「同」二〇)。滝覚房は、正成の学問の師といわれる観心寺の住侶である。後醍醐天皇による観心寺(観心寺郷であろう)地頭職と空海作とされる不動尊像の観心寺への寄附は、あるいは正成の斡旋によるのであろう。
その正成は、元弘三年八月ごろ、元弘の変で奮戦した恩賞として、河内国の国司および守護、和泉国の守護に任ぜられていた(『大阪府史』三第三章第一節。なお『太平記』が正成に河内・摂津二国が与えられたとするのは誤り)。また建武新政下で朝廷の組織が整備されるにしたがい、正成は記録所の寄人(よりうど)、雑訴決断所および恩賞方の奉行にも任ぜられた。いずれも新政での重要な役職である。こうして、それまで世間にはまったく無名であった楠木正成はにわかに脚光をあびることとなった。口さがない京童(きょうわらべ)は、過大な朝恩に浴したとして、楠木正成はじめ結城親光(ゆうきちかみつ)・名和長年(なわながとし)・千種忠顕の四人を、三木一草(さんぼくいっそう)と称したという(『太平記』巻一七)。ちなみに、三木とは楠木と、結城のキ、名和長年は伯耆守でキ、草は千種のクサである。