ところで楠木正成が前駆をつとめた後醍醐天皇帰京の行列の中には、護良親王の姿はなかった。護良親王は畿内近国をはじめ遠国からの軍勢を集めて、大和の信貴山(現奈良県平群町)に立て籠っていたのである。後醍醐天皇は勅使を派遣して、護良親王の帰京と、平和が回復したからにはふたたび延暦寺に出家すべきことを命じた。しかし親王は再出家を拒否し、足利高氏が幕府を再興しようとしていることを指摘して、新政は文武二道で治めるべきで、武を担当するのは親王以外にないこと、つまり征夷大将軍に補任することを要請した。誰であれ新しく征夷大将軍を任命するのは新政の理想に反することであった。しかし親王は下山の気はいをみせず、それのみか不穏な状勢を生んでいた。先にあげた元弘三年(一三三三)六月一五日付の宣旨にいう「兇悪の輩」とは、直接には信貴山につどう軍勢だったかもしれない。やむなく天皇は護良親王を征夷大将軍に任じ、親王は六月下旬にようやく帰京した。
建武新政は、かくて後醍醐天皇と討幕運動に奪戦した護良親王との不協和という形で発足したのであったが、天皇が理想とした綸旨万能主義の政治も、たちまちきびしい現実に直面せねばならなかった。所領安堵の綸旨を求めて諸国から多くの人々が上洛をはじめ、そのため農業生産にも支障が出る事態となったのである。そこで七月下旬には早くも綸旨万能主義を大きく手直しして、朝敵北条氏の与党以外の者は、諸国一同に当知行(実際に知行していること)を安堵するという、諸国平均安堵法にきりかえねばならなかった(能登総持寺文書、『大日本史料』六ノ一)。そして九月ごろに、所領の紛争などを解決するため、楠木正成もその奉行の一人に登用された雑訴決断所を発足させた。綸旨はこの後とも恩賞などにひろく出されているが、綸旨万能主義は、しょせん貫徹できるものではなかった。
元弘の変の恩賞は、楠木正成には河内・和泉の守護などが与えられたことは前述したが、足利高氏には、武蔵など関東の三国が与えられ、さらに後醍醐天皇の名前尊治の一字を賜って高氏を尊氏と改名、尊氏の弟直義にも遠江国が与えられた。また新田義貞にも越後守、上野・播磨介が与えられた(中世三四。なお『太平記』が新田義顕に越後国を与えらえたとしているのは誤り)。しかし赤松円心には、はじめ播磨国の守護職が与えられたものの程なく召し返され、円心の本拠地佐用荘の地頭職を与えられただけであった。円心は、攻略はならなかったものの播磨国から長駆六波羅探題攻撃の先き懸けをしただけに、恩賞に対する不満が大きかった(『太平記』巻一二)。この赤松円心を筆頭に、恩賞に不満の武士は少なくなかった。
ところで守護や地頭は、鎌倉幕府が創始した制度である。護良親王を征夷大将軍に任じたのは親王を帰京させる苦肉の策であり、親王の帰京後まもなく停止されたが、守護と地頭とは、建武新政下でも否定されなかった。河内国の守護は前述のように国司楠木正成が兼ねたが、和泉国では守護は楠木正成、国司は当初四条隆貞で、国司と守護が併置された国もある。こうした面でも、建武新政は徹底さを欠いた。一五〇年にわたる武家政権の実績と、討幕にひろく参加した武士の実力を無視できなかったからであるが、武士にあつく恩賞を与え新政府にも登用するについては公家の間に批判があり、武士に反発する公家も多く、『太平記』が「公武水火」とよぶような公家と武士との対立が深まった。中でも護良親王は、その後も「尊氏ナシ」と公言して、足利尊氏との対立をさらに深めた。建武元年(一三三四)一〇月、後醍醐天皇はついに護良親王を拘引し、鎌倉をかためていた足利直義に身柄を預けた。元弘の変の間に楠木正成と密接に連携し、河内をはじめ畿内近国の武士や寺社勢力に大きな影響を与えつづけた護良親王の政治的・軍事的生命は、こうして断たれた。
護良親王の拘引は新政下の政治の混乱を代表する事件の一つであるが、新政は、庶民の疲弊をかえりみず内裏造営を計画したり、十分能力を吟味せず公武の派閥均衡をはかって新政府に登用していると京童の失笑をかったような失政もあいついだ。後醍醐天皇が推進しようとした「公家一統」の政治に対しては、公家のほか武士にも農民にも、大きな期待があった。しかし建武新政の現実は、その期待を裏切るものであったのである。
そうした中で、足利尊氏に対する信望が、武士たちの間でしだいに高まることになった。元弘の変に多くの武士たちが参加したのは、後醍醐天皇と深い連りがあったとみられる楠木正成など一部の武士を除けば、天皇の政治理想に共鳴したからではなく、行き詰った政治を改革し、合戦の勝利によって恩賞を得ることを期待したからであった。建武新政下の政治は、そんな武士の期待に十分こたえるものではなかった。こうして武士たちは、新しい武家の棟梁の出現を待望するようになったのである。