足利尊氏も、源氏の末流として、武家政治を再興する意向をかためつつあった。そのために尊氏が建武新政と決別する機会は、意外に早くおとずれた。建武二年(一三三五)七月、北条高時の遺子を擁した中先代の乱がおこって鎌倉は占領され、足利直義は幽閉中の護良親王を殺害して敗走した。京都にいた足利尊氏は、直義を救援するため征夷大将軍の補任を願ったが、勅許を得ないまま東下し、鎌倉を回復してたちまちに中先代の乱を鎮圧した。そして一〇月、上洛の命令には応ぜず、逆に新田義貞誅伐を奏上し、ここに建武新政に公然と叛旗をひるがえすにいたったのである。
足利尊氏・直義は、追討のため東下した新田義貞軍を箱根・竹下(たけのした)の戦いで破って西上、翌延元元年(建武三年、一三三六)一月入京した。しかし、尊氏軍のあとを追うように上洛してきた北畠顕家(きたばたけあきいえ)軍が到着すると、尊氏軍は敗れて丹波に逃れた。同年二月、尊氏は播磨を廻って再度上洛を企てたが、摂津の打出・西宮や瀬川宿(現箕面市)で新田義貞・楠木正成軍に上洛をはばまれ、いったん九州まで逃れた。その尊氏を追討するため新田義貞が西下したが、いち早く熱心な尊氏派になっていた赤松円心の播磨国白旗城(現兵庫県上郡町)に釘付けにされた。その間に尊氏軍はふたたび東上を開始した。新田義貞は摂津国兵庫(現神戸市)まで退いて尊氏の上洛を阻止しようとし、楠木正成は後醍醐天皇の命によって新田義貞を赴援した。しかし五月二五日湊川の戦いにおいて、正成は討死してしまった。
湊川の戦いそのものについては南河内からは遠く離れた合戦であるため省略するが、楠木正成の死は南河内の地域史にも大きく影響する。以下正成の死を中心に、考えてみよう。湊川の戦いも『太平記』(巻一六)がくわしくえがいている。『太平記』によれば、正成は奮戦してわずか七三騎になった後、この勢力でも敵の一方を打ち破って落ちのびようとすればできたが、「京ヲ出シヨリ、世ノ中ノ事今ハ是(これ)迄ト思フ所存有ケレバ」、すなわち正成は出京いらい建武新政ももはやこれまでと考えており、覚悟の死であったとしている。正成がそう覚悟せねばならなかったのは、兵庫出陣の勅命をうけると、東上する足利軍に勝つために最良と考える戦略を献策したもののいれられなかったからであった。正成は「雲霧の如き大軍の足利軍には、普通の合戦では勝てない。新田義貞を京都へ召し返し、後醍醐天皇には再度比叡山へ行幸願い(正月の尊氏入京の時も天皇は比叡山に難をさけた)、自分は河内へ下って足利軍をいったん京都へ入れ、畿内の軍勢を率いて川尻(淀川口)をふさぎ糧道を断って足利軍を疲れさせ、その上で新田軍とともに狭撃すれば足利軍を滅ぼすことができよう」と献策した。しかし公卿の会議では、「合戦もしないうちに一年の内に二度も天皇に比叡山に難をさけよというのは帝位を軽んずるもの、また今まで小勢の味方で大敵に勝ってきたのは正成の戦略がすぐれていたからではなく、天皇の聖運によるもの、戦を京都の外に決すべきだ」という意見があり、正成の献策は用いられなかったという。
流布本の『太平記』は、正成は「『此上ハサノミ異儀ヲ申スニ不レ及(およばず)』トテ、五月十六日ニ都ヲ立」ったとするが、『太平記』の古態本である西源院本や神田本には、「異儀ヲ申スニ不及」の次に、「さては打死せよとの勅定ござんなれ」の一文を入れている。献策が受け入れられなかった時、打死せよとの勅定だと受けとらざるを得なかったとして、勝ち目のない戦いに出むく正成の内心の葛藤を垣間みせている。
こうして正成は死を覚悟して下向したが、途中桜井の宿(現大阪府島本町)で、一一歳の嫡子正行(まさつら)に、一族若党の一人でも残る限り「金剛山ノ辺ニ引籠テ」朝敵に抵抗するのが第一の孝行だと教訓し、河内に帰らせた。そして五月二五日、正成軍七〇〇騎は、五〇万騎といわれる足利直義軍と、三時(みとき)(六時間)の間に一六度も戦い、わずかに七三騎になった。戦に疲れた正成軍は、もはやこれまでと湊川の北のとある一村の寺に入り、一族一〇数人はじめ七三人が二列に座り、念仏を一〇遍ばかり同音に唱えて、一度に切腹した。上座にあった正成は弟の正季にむかって、「最期の願いは何か」と尋ねた。正季はからからと打ち笑って、
七生(しょう)マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅(ほろぼ)サバヤトコソ存候ヘ。
と答えた。正成は実にうれしそうな気持で、
罪業深キ悪念(仏教では、衆生(しゅじょう)の生命は三界六道を輪廻(りんね)するもので、人間に執着するのは罪業とされる)ナレ共、我モ加様(かよう)ニ思フ也。イザヽラバ同ク生ヲ替テ、此(この)本懐ヲ達セン。
と約束して、兄弟ともに刺しちがえて果てた。『太平記』はこのように正成の討死を覚悟の死として、まことに悲劇的に、みごとにえがいている。