建武新政の崩壊

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楠木正成が戦死し、新田義貞が京都に敗走すると、後醍醐天皇は、結局ふたたび比叡山に難をさけるほかなかった。建武三年(延元元年、一三三六)六月、足利尊氏軍は入京し、後醍醐天皇方新田義貞・名和長年らとの間に戦闘がくりかえされたが、名和長年や千種忠顕らが戦死して、足利軍はしだいに優勢となった。八月一五日、尊氏は持明院統の光明天皇を践祚(せんそ)させた。西走、再東上の途中で光厳上皇の院宣をうけて尊氏もまた官軍となっていたのである。ついで新田義貞も北陸に落ち、京都にかえった後醍醐天皇は、一一月二日、皇統のシンボルである三種の神器を光明天皇に渡した。そして一一月七日、尊氏は「建武式目」を公布し、これが事実上の幕府再興の宣言となった。同時に、建武新政は、三年六カ月で、ここに崩壊した。楠木正成の戦死によって、事実上新政は崩壊した、といってよかろう。このあまりに早い崩壊のために、富田林市域をはじめ南河内地方には、楠木正成の活躍と、観心寺・金剛寺にのこる数通の後醍醐天皇綸旨や宣旨の写などの他には、建武新政はほとんど痕跡をとどめないこととなった。