延元元年(建武三、一三三六)一〇月比叡山をおりて京都にかえった後醍醐天皇は、花山院の御所で軟禁同様の状態におかれていた。ところが一二月二一日、天皇はひそかに花山院の御所を脱出し、大和の奥地賀名生(あのう)(現奈良県吉野郡西吉野村)をへて、吉野に入った。後醍醐天皇を支持する公家や、楠木氏の残党はじめ後醍醐天皇支持の武士たちもおいおい吉野に集まってきた。そして光厳上皇・光明天皇を中心とする京都の朝廷に対抗して、後醍醐天皇を中心とする吉野の朝廷がひらかれた。吉野の朝廷を吉野朝、あるいは南朝とよび、京都の朝廷を北朝とよぶ。この年二月、後醍醐天皇は延元と改元していたが、光明天皇や足利尊氏は旧年号の建武を用いていた。そして後醍醐天皇が光明天皇に三種神器を渡したことで延元の年号はいったんなくなったが、南朝はむろん延元の年号を復活した。こうして、「吉野ハ延元々年、京都ハ建武三年也(なり)。一天両帝南北京也」といわれるように(『大乗院日記目録』)、南北両朝に二人の天皇があり、二つの年号が用いられる、南北朝分立の時代をむかえた。
なお年号(元号)とは、時の数え方は天子が定めるという思想にもとづいて中国ではじまったもので、年号を用いるか用いないかは、その年号を制定した天皇の支配に服従するかしないかの意思表示となる。朝廷が南北両朝に分裂し二つの年号が併存した南北朝時代には、どちらの年号を用いているかで、南朝支持か北朝(幕府)支持かが簡単に見分けがつくわけで、南北朝時代には、使用する年号は格別の意味をもっている。したがって以下本節でも、通史としてはやや煩わしいが、人物や史料によって年号を使いわけ、適宜北朝または南朝の年号を併記することとする。
後醍醐天皇はじめ南朝方の武将たちは、各地の武士にふたたび幕府打倒の決起をよびかけた。こうして元弘の変後むかえた平和は破れ、いっそう深刻な内乱、いわゆる南北朝内乱がつづくこととなり、富田林市域や南河内でもたびたび合戦がくりひろげられるようになった。