後醍醐天皇が花山院御所を脱出した直後、足利尊氏・直義は、天皇の行先を確認することができなかった。建武三年(延元元、一三三六)一二月三〇日付で伊予国の河野通盛(こうのみちもり)にあてた足利直義の軍勢催促状には、
廃帝(後醍醐天皇)御幸の事、河内国東条に御座の間、凶徒等蜂起すべきの由その聞え有り。
と記されていて、後醍醐天皇は河内国東条にありとし、一族らを引率して馳せ向かうべきことを命じている(河野文書、『大日本史料』六ノ三)。翌建武四年正月二日付で紀伊の志富田(しぶた)兵衛太郎にあてた足利直義の軍勢催促状でも、「廃帝河内国に御坐の間」とあって、足利直義は、依然後醍醐天皇は河内国にいるものとみていたようである(志富田泰次氏文書、『かつらぎ町史』古代・中世史料編)。後醍醐天皇が河内国東条にいると判断したのはむろん足利直義の誤りであるが、直義がそのように誤解したのは、河内国東条が、楠木正成が討死した後も、ひきつづき後醍醐天皇方の軍勢の拠点をなしていたからであった。
和泉国の岸和田治氏(きしわだはるうじ)は、楠木軍に属して湊川の戦いに参加し、以後も後醍醐天皇方として戦った武士の一人であるが、治氏は湊川の戦いから延元二年(建武四)三月にいたる度々の合戦に参加した軍忠状をのこしている(中世三六)。それによれば、湊川の戦いには、治氏は楠木一族の神宮寺新判官正房(まさふさ)ならびに八木弥太郎法達(ほうたつ)とともに戦った。ついで六月一九日から京都近郊で戦い、八月には護良親王若宮が籠った八幡山(現京都府八幡市)に連日祗候した。九月に入り足利氏一族の畠山国清(はたけやまくにきよ)が和泉国で蜂起すると、八木城(現岸和田市)に立て籠って奮戦した。そのうち楠木一族の橋本九郎左衛門尉正成(まさしげ)らが天王寺から和泉国に進攻してきたので八木城から打って出て凶徒(足利方)を追罰し、その後悪党ら(同)が蕎原(そぶら)城(現貝塚市)に籠ったので、追い落とした。
このように湊川の戦いの後、京都・山城や本拠の和泉国で戦った岸和田治氏は、ついで、
一、同(延元元年)十月四日、東条に楯(たて)籠る。
と軍忠状に記している。一〇月四日といえば、京都の合戦では後醍醐天皇方の敗色が濃厚となり、天皇が比叡山を下山する直前にあたる。河内や和泉方面で戦っていた楠木一族や岸和田治氏ら後醍醐天皇に協力した軍勢も、東条に集結したものであろう。なおこの岸和田治氏の軍忠状は、湊川の戦いで楠木軍は全員討死したわけではなかったたしかな史料で、八木法達ものちに河内で活躍することが記されている。
それはともかく、花山院御所脱出直後、後醍醐天皇は河内東条にいるかと足利直義が誤認した背景には、このような経過があったのである。そして東条は、この後とも南北朝内乱の全過程を通じて南朝軍の有力な拠点となることは、以下逐次述べてゆくとおりである。
では、河内国東条とは、どこをさすのであろうか。昭和三二年に富田林市と合併するまで、佐備川流域の佐備・龍泉・甘南備地区には、東条村があり、現在もこの地域は一般に東条とよばれている。しかし中世の東条は、この地区に限られるものではない。東条の地名は、もともと古代条里制のもとに石川郡が大きく東条と西条とに分けられた、その石川郡東条に由来し、およそ石川郡の東半分をさす呼称である。したがって、千早川は別名東条川ともよばれるように、千早川流域も東条に入る。楠木正成の本拠は千早川流域にあり、南北朝時代の河内国東条とは、主として千早川流域をさすと考えられる。しかし逆に、千早川流域だけが、東条ではない。現在の富田林市東条、つまり佐備川流域は、史料の上では佐備・龍泉などと特定の地名でよばれることもあるが、石川郡東部、金剛山北麓一帯が東条とよばれていることも多い。たんに東条というだけでは、現在のどの集落付近であるのか特定できない場合もあるわけで、岸和田治氏が立て籠った「東条」も、東条のどの城なのか、明らかにすることはできない。以下の叙述では、史料を検討して特定できる場合には極力地域名や城名を用いることとするが、単に「東条」とのみ記す場合は、必らずしも地域を特定できず、佐備川流域など富田林市域を含む場合もあることを指摘しておこう。